「慈悲とは理解である」

2016年12月27日

おはようございます。小出遥子です。

今日も引用から。

横田:自分の感情をなんとかしようっていうのは、難しいんですよ。しようとすればするほど燃えちゃったりしますから。だから、ちょっと違う立場で考えてみて、「ああ、あの人も大変なんだなあ」と思う。相手の事情がわかると、苦にならなくなります。そういうこともあるんじゃないでしょうか。
 さっき小出さんも慈悲ということを言っていましたが、朝比奈宗源老師の本に「慈悲とは理解である」と書いてあるんですよ。私、最初はよくわからなかった。なんで理解が慈悲になるのかと思ったんですが、あるとき、ああ、これは深いことばだな、と、はっとわかりました。

小出:慈悲とは理解である……。ほんとうに深いおことばです。その「理解」のベースになっているものってなんだろうって、いまお話をいうかがいしながらずっと考えていたんですけれど、もしかしたら、「ああ、あの人も大変なんだ」っていうのが、自分の中にストン、って入ってきたときには、もはや、「私」と「相手」との間に区別がなくなっているんじゃないかなって。というか、そもそも区別なんかなかったんだって、無意識のところで気づくんじゃないかな、と……。

横田:そう。まさにそれです。人間同士、ちょうど根っこがつながっているようなものなんです。禅のことばに「同根」というのがあります。根を同じくするっていう。なるほど、同根だから、こう、つながり合って、理解というものが生まれてくるんですね。

(拙著『教えて、お坊さん!「さとり」ってなんですか』より抜粋)

「慈悲とは理解である」

円覚寺の横田南嶺老師に教えていただいたこのことばを、
私は、折に触れて思い出すのです。

ああ、ほんとうに、そうだなあ……って。

そして、しみじみとこのことばを味わっているうちに、
仏教が、「智慧」と「慈悲」とを両輪として説いているその意味が、
理屈を超えたところからわかってくるような気がするのです。

本来的には、「わたし」も「あなた」も「ひとつ」である。
このことを洞察し、理解する力が「智慧」です。

と、同時に、自他への思いやりが、おのずから生じてくる。
それが「慈悲」です。

「慈悲」を実践すると「智慧」が深まり、
「智慧」が深まると、さらに「慈悲」が大きく広がります。

「智慧」が先か、「慈悲」が先か、ではなくて、
「智慧」も「慈悲」も完全に同時にあって、
互いが互いのはたらきを成り立たせ合っているのだと思う。

私たちが求めてやまない、素朴な意味での「しあわせ」は、
まさしく、そこにあるのではないでしょうか。

 

よい一日をお過ごしください◎

 

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