全身で施無畏印を形作って。

2014年9月5日

奈良の大仏・盧舎那(るしゃな)さまの一番好きな箇所は、文句なしにあの手だ。肉付きが良くて、ふくふくしていて、丸くて、四角くて、力強くて。見ているだけで心がすうーっと落ち着くような、あの巨大な手の中に、この全身をすっぽりと包まれたのなら、さぞ心も安らおう……。

 

盧舎那さまの左手は、下方からだとあまり良く見ることができない位置にあるので、私はやはり、少し宙に浮かせた状態で止まっている右手の方ばかりを見てしまう。その右手は、手のひらをこちらに向けて、中指を少しだけ前に出したような形をとっている。

 

これは「施無畏印(せむいいん)」と呼ばれる印相で、文字通り「不安や恐れを取り去ってあげよう」という、仏さまのやさしい心を表しているらしい。

 

 

 

「大丈夫。私はなにも持っていない。あなたを傷つけるつもりはない。ただゆったりとくつろぎなさい。」

 

そんな風に私たちに語りかけてくれているような気がするあの右手は、そのものズバリ「愛」の顕現だ。

 

あったかいなあ。ありがたいなあ……。そう思うと同時に、ごくごく自然に開いた手のひらを重ねあわせている自分を発見する。

 

信仰って本来、こういうものなんだろうな、と思う。圧倒的な「愛」を前にして、ただただ手を合わせ、頭を垂れてしまうこと。そこには一かけらの不安も打算もなくて、ただただ自分を投げ出して、すっぽりと「愛」に包まれてしまうこと。そしてそのすべてをありがたいと思うこと――

 

 

 

 

 

「小出さんは、人を裸にしてしまう人だね。」

 

知人にそんなことを言われたことがある。いままで誰にも話したことがない自分の秘めた部分を、私の前ではついつい言葉にしてさらけ出してしまうのだそうだ。

 

実はこんな趣味があって……とか。実は子どもの頃からこんなことを考えていて……とか。実はいま、こんな想いを抱えながら生きていて……とか。

 

これに似たようなことは、実は、過去幾度も、しかもまったく別の人たちから言われている。両手じゃ足りないぐらいの数の人々がそのように言ってくれるのだから、私には、ほぼ間違いなく、そういった性質があるのだろう。

 

本人としては、いつだって「話したければ話してください」というスタンスでいる。「是非脱いでください!」と頼んでいるわけでもないし、「白状しろ~!」と脅しているつもりもない。ただただ普通に会話をしていく中で、いつしか相手の方から、「これ、誰にも話したことがないことなんだけどね……」と、そっと自身の心の内を明かし始めてくれるのだ。

 

 

 

これは多分、特殊な会話の技術が私に備わっているとかそういうことでは決してなくて、ただ単純に、こちらの方が最初にさらけ出してしまっているからだと思う。目の前の人に、ぜんぶ見せてしまおう、と思う。恥ずかしいこともいっぱいあるけれど、でもそれが私なのだから、いいよ、ぜんぶ見てください。単純に、そっちの方が楽だから。そんな風に思って、(もちろん相手の負担にはならないように最大限気は配っているが)できるだけ身軽な状態で、でも真剣に、相手の目を見て会話を楽しむよう心掛けている。そんな風にして一緒にいると、ある瞬間、握られていた相手の手のひらが、ふいにふわっと開かれる。それがわかるのだ。

 

 

 

人と接するとき、私の心には、いつも奈良の盧舎那さまの右の手のひらがあるように思う。

 

まずはこちらから手のひらを開いて見せてしまうこと。そして、心のうちをさらしてくれた相手のことを、絶対に否定しないこと。否定どころか、そこに一切のジャッジを持ちこまないこと。ただただ、あの大きな手のひらで包みこむように、相手の話にできるだけやさしく相槌をうつこと――

 

もちろん、この全部を完璧になんてできるわけがない。私はまだまだ修行が足りない。

 

それでも。とても大事なことを私に教えていただいたな、と思う。立ち返れる場所があるのは、ありがたいな。本気でそう思う。

 

 

 

 

 

全身で施無畏印を形作って生きていきたい。いつでも。どんな時でも。

 

そんなことを思う三十路の秋口。