自力と他力のはざまで。 その1

2014年9月9日

衆生本来仏なり 水と氷の如くにて
水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし
衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ
たとえば水の中に居て 渇を叫ぶが如くなり

 

(白隠禅師「坐禅和讃」より抜粋)

 

 

 

 

 

私たちは本来「仏」です。これはもう大前提。私たちは、そのままで、ひとり残らず、仏そのものなのです。

 

生まれてからいままで、一度たりとも仏と離れたことなどなかった。仏でなかったことなどなかったんです。本当はね。

 

でも、私たちは普段、分離の世界を生きているから、本来離れるはずのない「仏」と「自分」すら切り離して考えるようになってしまった。自分の中の仏を、すっかり見失ってしまった。

 

そう、頭だけを使って「考える」ことによって。

 

頭だけの思考をすればするほど、私たちは自分の正体である「仏」を見失っていくこととなりました。

 

自分の中に仏を見失ったまま生きる道は、苦しみに満ちています。いつだって不安で、どうしようもなく孤独で、不快で、それゆえに人に対して攻撃的になったりします。

 

しあわせになりたくて、良かれと思って「考える」という方法をとったのに、それがまったく真逆の方向に私たち人間を運んでいくのは、なんとも皮肉なお話です。

 

 

 

もう一度言います。私たちは、いまここにいる自分、まったくもってこのままで、仏そのものです。一人残らず、間違いなく。

 

 

 

その、当たり前すぎて、それゆえに忘れられがちな私たちという存在の大前提に立ち返るためのツールが、仏教にはたくさんあります。

 

 

 

そのひとつが念仏。「南無阿弥陀仏」の六文字を唱えるという方法。法然さんが開いた浄土宗や、親鸞さんの浄土真宗などで用いられています。

 

「南無阿弥陀仏」というのは、まあざっくり言ってしまえば「阿弥陀さまにお任せします!」という意味です。

 

考えれば考えるほど、「しあわせ」=「自分と仏が一体となって存在している感覚」というものとかけ離れてしまうのなら、そもそも考えなければいい。ぜんぶ阿弥陀さまにお任せしてしまえばいい。考えることすら阿弥陀さまがやってくれるのだから、私たち人間はな~~~んにも考えずに、ただただ念仏を唱えるだけでいい……。(ちなみに、この「お任せ」という態度を指して、「他力」の言葉が当てられます。「他」=「阿弥陀さま」なんですね。)

 

それが念仏の基本方針です。なにかを考えそうになった瞬間、念仏を唱えることによって、頭の中に一瞬の空隙を創るのです。

 

私も日々、少しでも思考の世界に迷い込んでしまいそうになったら、即座に「なむあみだぶつ!」と唱えていますが(変人ですね)、これ、やってみると分かるんですが、単純ながらものすごく有効な方法です。

 

放っておけば連想ゲームのようにもやもやといつまでも続いてしまう思考というものを、「南無阿弥陀仏」の六文字を挟むことによって強制的に中断させてしまう。それが念仏というものです。

 

いや、えーと、これ、あくまで、「私の」念仏観であって、実際の教義上ではどう語られているかはわかりませんが……。(無責任!)でも、私の実感としては、こんな感じです。

 

 

 

思考を中断すると、人にはなにが起こるか。

 

ただただ「ぽかーん」とするんですね。

 

この「ぽかーん」として、どこまでも茫洋として広がっていくような自分こそが、本来の自分です。

 

その「自分」っていうのは、個別の意識を持った「私」のことではありません。

 

この場合で言えば阿弥陀さまと一体となった「自分」のことです。

 

 

 

「南無阿弥陀仏」を唱えるだけで仏になれる!? ちょっと簡単すぎない!? と言われてしまいそうですが、そんな自分の「思考」すら、阿弥陀さまにお預けしてしまえばいい。

 

ただただ唱える、その先には、私たち個別の意識には考えもつかなかったような世界が広がっています。見よう見まねでも、「はああ? 意味わかんね~」と思っていても、いざやってみたら、「こういうことか!」と納得できると思います。

 

 

 

以上、頭だけを使った思考が自分の中の仏を見失わせるのならば、そもそも「考えない」ことを選べばいい。そのための手段として、浄土宗や浄土真宗では「念仏」と呼ばれる方法をとった。そしてそれはシンプルながら、ものすごく奥が深くて、実際、ものすごく有効な方法なのです……っていうお話でした。

 

(ハワイの伝統的な問題解決法「ホ・オポノポノ」と、日本の「念仏」は、根本の考え方がまったく一緒なのではないか、と私は考えているのですが、これについてはまた今度まとめます。)

 

 

 

 

 

と、ここまで書いたところでかなりの字数に……。

 

明日は、「念仏」の他力に対して、自力で仏に近づいていく方法、つまり「禅」と呼ばれる方法について書いていこうと思います。

 

よろしくお願いいたします。