自力と他力のはざまで。 その2

2014年9月10日

まず「阿弥陀さま」という方便(とか言うと怒られそうですが……)を用意して、その存在が自分の代わりに一切をやってくれる、考えることすらやってくれる。だから自分はただただくつろいでいればいい。思考を投げ出して、完全にくつろいだ状態の自分こそが、仏と一体となった「自分」である、と考える。そこに戻るための手段として、浄土宗、浄土真宗の「念仏」があります。

 

……というお話を昨日書きました。「他力」のお話ですね。もう、とにかく阿弥陀さまという存在を信頼して、ただただ「南無阿弥陀仏」の六文字をとなえる。それが「念仏」です。

 

 

 

これに対するものとして、いわゆる「自力」で仏の世界に入っていく「禅」という手段が挙げられます。

 

念仏が「信頼」の上に成り立つ手段ならば、禅は「疑念」を契機としてスタートするものと言うことができるかもしれません。いや、「疑念」よりももっと強いな。「否定」と言った方がいいかな。

 

 

 

禅の言葉に「仏に逢っては仏を殺せ」というものがあります。唐の禅僧・臨済さんの言葉だそうです。随分怖いことを言いますよね。これは、「仏」というものに人格的ななにかを与えることへの警鐘なのだと思います。人格なんてものは、「分離」の世界に属する、いわば幻想、かりそめのものに過ぎない。

 

となってくると、この自分、「小出遥子」という名前を持っているこの私という人格、この存在、それ自体を否定せざるを得なくなってきます。

 

 

 

「仏なんていない」「自分なんていない」「そもそもこの世にはなにもない」

 

それが禅の基本思想です。

 

 

 

自分自身をかりそめのものであると見抜いたとき、そこに「本当の」世界が広がっています。自分も仏もなく、それゆえにすべてが一体となった世界。それこそが唯一絶対、真実の世界です。

 

 

 

「阿弥陀さまを信頼しています!」「一切をお任せします!」と宣言する浄土宗、浄土真宗の「他力」に対して、「仏に逢っては仏を殺せ」なんてことを声高に叫ぶ禅宗のやり方には、「自力」の言葉が当てられます。

 

 

 

「他力」と「自力」。

 

こうして並べるとまったく真逆なことを言っているように思えるのですが、アプローチが違うだけで、目指すところはまったく一緒です。

 

というか、実は根本の考え方も一緒です。

 

 

 

昨日書いたことに戻れば、「衆生本来仏なり」なわけです。生まれた瞬間、そのままの自分でいさえすれば、いつだって仏と一体でいられる。

 

でも、生きていくうちにそこからどんどんどんどんずれていくわけです。頭だけを使った思考によって、自分と仏とを分離させてしまうわけですね。

 

考えれば考えるほど、仏と一体である自分というものを見失ってしまうのなら、そもそも考えるのをやめればいい、という考え方の上に成り立つのが「念仏」です。

 

それに対して、すでにずれてしまったものをもと(の自分)に戻していく、というのが「禅」という手段。

 

実は、念仏も禅も、そのどちらも、「もとの自分」「そのままの自分」を基準にして成り立つものなんですね。そもそもそこからずらさないようにするか、ずれてしまったものをもとに戻すか、それだけの違いで。

 

 

 

「禅」っていうのは、「いまに心を込めること」です。

 

なにもお堂で坐禅を組んで後ろから警策で「パーン!」と叩かれるようなことをしなくても、たとえば丁寧にお茶をいれるとか、窓を綺麗に拭くとか、目の前の人の話を真剣に聞くとか、「禅」的な手段は、日常のそこここに無数にあります。

 

目の前の行動とまったく一体化しているときの自分は、完全に「いま」にいます。そして「いま」という時間には(厳密に言えば「時間」ではないのですが)一切の分離意識が存在しません。

 

つまり、自分も仏もない、ゆえに自分イコール仏だし、仏イコール自分。そんな世界が出現するわけです。

 

 

 

ということで、結局、「他力」も「自力」もないわけです。

 

……とか言うと乱暴すぎるか。さすがに怒られるか。ははは。まあ、とにかく、本当に、どちらも「手段」としてやっているだけで、最終的に到達する、というか、「舞い戻る」その場所はまったく一緒なわけです。

 

念仏を唱えてもいい。禅的な行動に打ち込むのもいい。それ以外のことをやってもいい。やらなくてもいい。

 

すべて「本来の自分」を基準としているのなら、そこに戻るためのものなら、なんでもいい。

 

そう、本当に、「なんでもいい」のだと思います。決して捨て鉢な意味じゃなくて。

 

 

 

深い理解に達したお坊さんは、もはや宗派の垣根を軽々と越えていくのではないかな、なんてことを思います。

 

そもそも「他力」も「自力」も、分離の世界に属する言葉だしね。

 

 

 

衆生本来仏なり 水と氷の如くにて
水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし
衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ
たとえば水の中に居て 渇を叫ぶが如くなり

 

(白隠禅師「坐禅和讃」より再び抜粋)

 

 

 

「遠く」を求めなくていい。「それ」は、いつだって自分と共にあります。