「方便」ということ。

2014年9月11日

仏像は「仏」の「像」なのであって、「仏」そのものではない。

 

「像」はツールに過ぎない。いわば方便。

 

そう、「仏像」なんて単なる方便なのだ。

 

「像」を超えたものを表現するために「像」を用いているに過ぎないのだから、そこで止まっていちゃ、本来の意味など見出せるはずがないのだ。

 

 

 

……なんてことを言う私にも、仏「像」自体を、仏「そのもの」だと思って、そんな風に観ていた時期があった。

 

お堂の中に、「私」がいて、「仏」がいて……「ひとり」と「一尊」が、ただただ静かに向き合っている――

 

そんな感覚でいた。

 

「私」と「仏」とを、完全に切り離して考えていたのである。

 

 

 

でも、あるとき。とあるものすごく有名な仏像の前に正座して、そのお顔を見上げた瞬間。

 

気づいたのだ。自分が数々のお寺で「観て」きたものの正体を。

 

 

 

それは、もはや「像」ではなかった。

 

いや、確実に「像」としての形をもっているのだが、そして網膜には確実に形として像を結んでいるはずなのだが、そこに一切の意味が見いだせなくなっているのだった。

 

目から入ってくる情報以上のものが、私の全身を浸し、溢れ、「外側」との境界線をなくしていった。

 

 

 

「私」も「仏」もなくなってしまったその中で、私はこんな言葉を聞いた。

 

「自分の中にないものは、見えないようになっている」

 

仏「像」というものの意味が、それが作られた理由が、それを観る理由が、そしてこの世のすべての「表現」の存在理由が、理屈じゃなく、わかってしまった瞬間だった。

 

 

 

 

 

すべてこの世にあるものは、本質を表現するためのツールなのだと思う。

 

言葉だってそう。ひとりひとりに与えられた肉体だってそう。

 

そこを通してしか感じられないものを、誰かに――自分に――感じさせるために、すべての「それ」は存在させられているのだと思う。

 

 

 

 

 

ツールは尊い。しかしツールに過ぎない。

 

そこに表現された以上のものが、いつだってそこには「ある」のだ。