「極楽往生」も方便のひとつ

2014年9月15日

9月9日の記事で念仏の効用について書きましたが、少し補足が必要な気がしたので、今日はそれについて。

 

 

 

「南無阿弥陀仏」の六文字を唱えることで、連綿と続く思考を強制的に中断させ、一瞬の空隙を作る。そうやって自分を「ぽかーん」とさせる。その「ぽかーん」とした自分こそが、仏と一体となった、本来の「自分」です。……というお話でした。

 

このとき、私は、「いま」に光を当てた書き方をしました。自分を強制的に「いま」に戻すためのツールとして、念仏を用いるのだ、と。「いま」には悩みも苦しみも悲しみもなにもない。なにもないからこそ、救われるのだ、と。

 

これ決して間違いじゃないんですけど、ていうか誰がなんと言おうと本当のことだと思っているんですけど、ていうか本当のことなんですけど、でも。実際、「念仏」というものを広めた、浄土宗の開祖・法然さんや、その弟子で浄土真宗を開いた親鸞さんなんかは、「いま」のことは、特に言及していないんですよね。

 

彼らが説いたのは「南無阿弥陀仏を唱えれば、極楽往生できます」ということ。「死んだら極楽に行けるよ」ってことですね。つまり、「来世」のお話なんですね。

 

「来世」って……。

 

 

 

うーむ……と考えこんでしまいます。なんなんだ、「来世」って。

 

来世なんて、そんなあるかどうかも分からないことなんか言われてもピンと来ないよ! 苦しいのはいま、この瞬間なんだよ! この苦しみをどうにかしてよ!

 

……と思うのは、現代の我々の感性で。法然さんや親鸞さんが活躍した時代は「末法の世」でした。度重なる戦乱や飢饉により、人々は現世で生きることに疲れ切っていました。死は、あまりにも身近でした。そんな極限状態を生きる人々にとっては、「念仏さえとなえれば、いま、ここで楽になれるよ」と言われるよりも、「念仏を唱えれば、来世、必ず極楽に生まれ変われます」と言われる方が、よっぽど救いになったのであろうことは、想像に難くありません。

 

 

 

でも。でも! 「極楽往生」を人々に説いて回った法然さんや親鸞さんが、先日の記事で私が書いたような、「いま」における念仏の効用について、まったく意識していなかった……なんてことがあるわけがなくて。

 

というか、むしろ、彼らはそこをベースにして、その上で「極楽往生」なるキーワードを方便として使っていたのではないかな、と思うのです。

 

 

 

「極楽」という名の、苦しみとは無縁の美しい場所があって、念仏さえ唱えれば、来世、必ずその場所に生まれ変わることができるのですよ……なんていうのは結局「物語」に過ぎなくて。(でも、あの時代にはぜったいに必要な「物語」でした。)大事なのは「いま」。いま、ここ、この自分、なわけです。「極楽」という場所があるとしたら、それは「いま」「ここ」だし、それを味わうのも、いま、ここ、この自分、です。

 

というか、「いま」「ここ」に戻ることさえできれば、その直前にどこにいたって、なにをしていたって、人間は「極楽」を味わえます。

 

そして、「いま」「ここ」に戻るための手段として、念仏はものすごく有効です。

 

 

 

いま、ここ、この自分さえ救われたのなら、当然、過去の自分も、未来の自分も救われます。なぜなら、過去も未来も「いま」の中に含まれているからです。

 

「いま」をベースにした、来世の救済。

 

法然さんたちが説いた「極楽往生」って、こういうことなんじゃないのかな。

 

 

 

ははは、最後いきなりぶっ飛んじゃいましたかね。いや、明らかに飛ばし過ぎですね。すみません。過去も未来も「いま」の中に……ってお話は、また今度、あらためて書きます。とても大事な部分です。

 

 

 

三連休の最終日ですね。みなさま、良い一日を。