【暫定版】「神」と「仏」の違い

2014年9月16日

はじめに断っておきますが、今日の記事はぜんぶ「なんとなくそう思った」で書いていきます。専門的な本に書いてあったわけじゃなく、なんとなく、素人の直感で「こうなんじゃないの?」と思ったことに過ぎません。ということで、正しいか正しくないかはわかりません。す、すみません……。いや、今日に限らず、いつもそうなんですが、今日のはとくに……。すみません。

 

 

 

 

 

「神」と「仏」はいつもなんとなく並べて表現される。けど、その両者に明確な違いがあるのか? と問われると、いつも「う~ん……」と唸ってしまう。

 

違いは、あると言えばあるし、ないと言えばない。どのレベルで語るかによって、どちらとも言えてしまうのだ。

 

 

 

「神」も「仏」も、原初のエネルギーとしては同じものなのだと思う。私がいつも言っている、「あなたも私も、彼も彼女も、あちらもこちらも、右も左も、上も下もない世界」「なんにも“ない”、それゆえにすべてが“ある”世界」ってやつですね。そこでは「神」も「仏」もない。それゆえに、すべてが「神」であり、「仏」なわけです。(ということはつまり、「私」イコール「神」だし、「私」イコール「神」でもあるのですが、それはまた今度……。)

 

その原初のエネルギーを指して、日本の神の世界では「天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ」」、仏の世界では「大日如来」(場合によっては「阿弥陀如来」)という呼び名を与えているにすぎないのだと思う。

 

源はまったく一緒なのだ。

 

で、それが役割を細分化して曼荼羅状にどんどん広がっていったものが、それぞれの名前のついた「神」であり、「仏」であるわけですね。(たとえば「カグツチノカミ」とか「シナツヒコノカミ」とか。「愛染明王」とか「文殊菩薩」とか。)

 

(……と、ここまでは、割と自信を持って書けるのですが。問題は以下です。)

 

 

 

それで、私がなんとなく思うのは、「仏」は対人間のエネルギーのあらわれ、「神」は人間をもひっくるめた自然全体を司るエネルギーのあらわれなんじゃないか、ということ。対象という視点から見た役割に、それぞれ違いがあるのかなあ、と。

 

なんでそう思ったのかと言うと、お寺ではまっすぐに自分に向かう「一対一」的なエネルギーを強く感じることが多いけれど、神社ではそういったものはあまり感じず、その代わり(?)空間全体のエネルギーにすっぽりと包まれるようなことが多いような気がするから。あと、これはどちらも人間の手によって生み出されたものなので、あまり根拠にはならないかもしれないけれど、「仏像」とは視線がばっちり合うことが多いけれど、「神像」はどこを見ているのかさっぱりわからないことが多い、ということがあるから。

 

仏さまは、私たち人間のひとりひとりに実際的な「愛」を与えてくれる感じがするけれど、神さまは人間ひとりひとりのことなどそもそも眼中になく(いや、多分目には入っているのだとは思うが)、もっと大きな、自然全体の流れを見た上での「愛」を与えてくれるような……そんな感じがすごくするのだ。

 

どちらも「愛」には変わりはないのだが、印象はまったく違う。その印象の違いこそが、「神」と「仏」が別物として表現されるゆえんなのではないか。

 

 

 

 

 

うーん、キレが悪いな。すみません。まだあまり考えがまとまっていないのですね。というか、ちゃんと言葉に置き換えられていないというか。力不足です。なんか今日は謝ってばかりだなあ。すみません。

 

修行を積んで、また書きます。