電波としての「世界」、受信機としての自分。

2014年9月20日

「ずばり、わたしは霊魂なの?」

「……うーん、ついに来たか。まさに重要な質問だね。僕もずっとそれを考えてきた」

「だったら、ここできちんと答えて欲しい。ここで話してるわたし、書かれてるわたしはいわゆる心霊としてあなたの前にいるの?」

「いや、そうじゃないと思う。僕の考えでは、死者の世界とでもいうような領域があって君はそこにいる」

「だからそれを霊界っていうんでしょ?」

「僕は別に霊界の存在をここで否定したいわけじゃないんだけど、ただ、もし霊界があるなら人類絶滅の瞬間にそこは最も栄えるだろう。でも、僕が言ってる死者の世界は逆だ。そこは生者がいなければ成立しない。生きている人類が全員いなくなれば、死者もいないんだ」

「え、何言ってるの? 何、その考え? 待って待って。ええと、生者がいなくちゃ成立しない死者ってことは、つまり死者は生きてる人の思い込みっていうか、思い出の延長ってこと? 生き残った人の心の中にだけ生きてて、一方的な生者の都合に合わせて、わたしたちはあらわれる」

「それも違うと僕は思う」

「え、なぜ? なんで?」

「生き残った人の思い出もまた、死者がいなければ成立しない。だって誰も亡くなっていなければ、あの人が今生きていればなあなんて思わないわけで。つまり生者と死者は持ちつ持たれつなんだよ。決して一方的な関係じゃない。どちらかだけがあるんじゃなくて、ふたつでひとつなんだ」

「えっと、例えばあなたもわたしもってこと?」

「そうそう、ふたつでひとつ。だから生きている僕は亡くなった君のことをしじゅう思いながら人生を送っていくし、亡くなっている君は生きている僕からの呼びかけをもとに存在して、僕を通して考える。そして一緒に未来を作る。死者を抱きしめるどころか、死者と生者が抱きしめあっていくんだ。さて、僕は狂っているのかな? 泣き疲れて絶望して、こんな結論にたどりついていて」

 

(『想像ラジオ』 いとうせいこう著 河出書房新社刊 より抜粋)

 

 

 

 

 

転生ってなんぞや? 前世なんて本当にあるの? っていう話の前に、説明しておくべきことがあるので、今日はそれを書きます。

 

 

 

最初に言いきってしまえば、転生も前世も宇宙人も幽霊も個別の霊魂も……。これら「あやしげ」な現象、ぜんぶ、この世に実在します。

 

はああ? 昨日、「人は死なないし、個別の霊魂も存在しません! 以上!」とか言ってたじゃんかよ~! 小出遥子なに言ってんだ……。ヤバくね? おかしくね?? こいつのブログ、これ以上読まない方がいいんじゃね??? と思われた方もいらっしゃるでしょう。

 

が、実在するものは実在するのです。目の前にPCがあります。机があります。自分のお尻の下には椅子があります。それとまったく同じレベルで、「前世、フランス王妃として生きていた自分」も、「金星からやってきた○○さん」も、「大好きだったおばあちゃんの幽霊」も、確実に実在します。

 

ただし、それらの「ストーリー」を、「その瞬間に」、「心から」「必要としている」人にとっては、のお話です。

 

必要としない人には、見えないし、聴こえないし、感じられない。つまり「実在しない」。

 

ただ、それだけのお話だと思うのです。

 

それらがあるのかないのか、それを議論すること自体ナンセンスなのです。

 

 

 

いままで何度も何度も繰り返し繰り返し言ってきましたが、実は私たちは生まれてもいないし、それゆえに死ぬこともありません。この世界の本質は「無」です。それだけは絶対不変の真実です。「ない」のだからそもそも変わりようがない。

 

でも、その「ない」は、それゆえに無数の「ある」を生み出すことができて。すべてが「ない」からこそ、すべてが「ある」。この世の「ある」は、すべて「ない」の化身です。いや、「化身」っていうのも厳密には違うのですが……。「ある」と同時に「ない」がある。いつだってその背後には「ない」がある。「ない」が「ある」を成り立たせている。うーん……。このあたり、言葉を超えた領域なので、いつもうまく説明できなくて歯がゆいのですが……。

 

「ない」の懐の深さは、転生やら宇宙人やら幽霊やらの「ストーリー」の存在すらもゆるします。「懐が深い」という表現すらケチ臭く感じてしまうほど、「ない」の世界の懐は深いのです……。それはもう、たとえようもなく。

 

 

 

「ない」からこそ「ある」、それを前提として話を進めます。

 

「ある」の世界のストーリーは、無数の層のようなものとして存在しています。自分の前世のストーリー、宇宙人の存在するストーリー、個別の霊魂が登場するストーリー……。それらはすべて、個別の周波数を持っています。TBSラジオは954、文化放送は1134、ニッポン放送は1242……といった具合に。そのそれぞれが目に見えない電波として、空気中を漂っている。で、それらに「受信機」としての人間がチューニングを合わせると、その世界が突如として眼前に現れるわけです。

 

たとえば霊感の強い人同士、違う時間に同じ場所で同じ「幽霊」を見る、といったようなことが起こるのは、同じ電波をキャッチしているからです。

 

 

 

チューニング方法は、「今、この瞬間」に、心の底から、その「ストーリー」を必要とすること、それだけです。ただ、それには「無意識」というものが深く関わってくるみたいです。必要としていることが当たり前すぎて、顕在意識ではもはや「意識」できないぐらいに、それが浸みこんでいないと、チューニングは合わない。どうやらそんな風になっているみたい。

 

前世というストーリーがどうしても必要な人には、その瞬間に、「フランス王妃として生きた自分の記憶」が確かなものとして脳内に再生されるし、宇宙人というストーリーが必要な人には、その瞬間に、「金星からやってきた○○さんの声」として確かに耳に届くのでしょう。

 

逆に言えば、その人がもうそのストーリーを必要としなくなれば(つまり自らチューニングをそこに合わせなくなれば)、それらは見えなくなるし、聴こえなくなるし、感じなくなります。

 

かと言って、それらの世界が「なくなった」わけじゃないのですよね。それらの世界は、いまこの瞬間も、どこかの誰かに「存在させられている」のです。

 

持ちつ持たれつ、抱きしめあって存在している――

 

こういうことですよね? いとうせいこうさん。(あ、すみません。ファンなんです。)

 

 

 

なんにも「ない」からこそ、すべてが「ある」。「ある」世界では、すべてが、この瞬間、自分にとって必要だから、目の前に現れています。ぜんぶぜんぶ、自分のために、それらはあるのです。

 

それが、この世界の「愛」です。

 

でも、その「愛」に甘えてばかりじゃいけない。「ある」を成り立たせている「ない」に目を向けないと、いずれ、「ある」は苦しみに変わってしまうんじゃないかな……なんてことを思うのです。

 

そういう意味で、昨日は「人は死なないし、個別の霊魂もありません! 以上!」と絶叫したわけです。

 

「ある」を生きることもできるし、「ない」を生きることもできる。というか、「ある」と同時に「ない」を生きている。誰だって。本当は。いつだって。

 

それを思い出せたら、みんなきっと楽になる。「ある」の世界を、肩の力を抜いて、もっともっと楽しめるようになる。

 

きっと。

 

 

 

 

 

分かりづらい記事でしたね。ごめんなさい。

 

でも、届いてくれるといいな。