「正解」を選んで食べる。

2014年9月23日

一日ほぼ一食生活を続けていると、一回ごとの食事が、文字通り真剣勝負になる。

 

一回の食事で、どれだけ自分を満たしてあげられるか……。舌だけでなく、身体ごと、心ごと、よろこびに包まれるような食事というのは、一体どういったものなのか。自分はいま、なにを欲しているのか。それを、毎回、ものすごく真面目に考えるようになった。

 

元来意地汚い私である。一日一回だけの食事のチャンスをふいにすると(つまりそのときの自分にとって「正解」でないものでおなかを満たしてしまうと)かなり落ち込んでしまうのだ……。

 

逆に、そのときの「正解」をぴたりと出して、自分に与えられたときは、一日三食きっちり食べていた頃の何十倍ものよろこびが全身を駆け抜ける。「これだよ~。いま欲しかったのはこれ! うれしい! 今日も食事が与えられたことに感謝! 南無南無!」と、ほとんど涙を流さんばかりにして一口ひとくちをものすごくよく噛んで、味わって味わって味わいきって食べるようになる。

 

食べるときは食べることに集中する。テレビや携帯電話に気をとられている暇はない。そんなことをしたら食べ物に失礼だし、食材に関わった人たちに失礼だし、なによりも自分に失礼だ。

 

そうやって味わって味わって味わいきって、すっかり満たされた気持ちで「ごちそうさま」を言ったときには、自分の全身が、微細な光の粒に包まれているような、というか自分自身が光の粒でできていることに気づくような、そんな感覚を得ることができる。おなかの底からじわじわとあたたかさが全身に伝わっていって、いつしか自然な笑みを浮かべている自分に気づく。

 

食べるって、本当にすごいことだ。

 

食べることはそのまま生きることだ。毎回毎回が真剣勝負でなくてはならないものだったのだ。それに気づけて良かったな、と思う。

 

おなかは空いてないけどお昼の時間が来たから、とか、お肌のために野菜を、とか、とにかく甘いものを口に放り込んでストレスを解消したい、とかで「テキトー」に選んだものでは、決して本当の満足は得られない。心の声を無視して、頭だけで選んだものは、たいてい不正解だ。

 

正解はいつだって自分の中にあって、それは毎日変動している。昨日食べて満足したものが、今日も自分を同じ境地に導いてくれるとは限らない。

 

数値的にバランスのとれた○○定食を食べても満たされないときもあれば、友人がくれた手作りパン一切れで、すっかり満ち足りてしまうときもある。

 

そこにはたぶん、「感謝」というものが大きく関わってくるのだろう。

 

感謝の気持ちだけが、自分を本当に満たしてくれるのだと思う。

 

いや、なにを食べても心の底から感謝できる自分でいることが一番なのだが、未熟な私にはまだまだそれは難しい。だから、その時々の自分が感謝の感情を抱きやすい対象を真剣に選んで取り入れることが大事なのだと思う。田舎のおばあちゃんが送ってくれた野菜で作った料理とか、感じのいい店員さんがいるお店での食事とか。まずはそこからはじめていって、徐々に感謝の対象が広がっていくのが自然かな、と。それが「正解率」を上げていくことになるのかな、と。

 

一日一食は良い修行の場だと思う。まあ、荒療治みたいなものなので、すべての人におすすめできる方法ではありませんが……。

 

 

 

……なんだかとりとめもなくなってしまいましたが、食べることに対するいまの私の感慨をまとめてみました。

 

今日はなにを食べて生きていこうかなあ☆