東京タワー

2014年9月30日

「しあわせは自分の中にある」とかってよく聞くけれど、この表現、私に言わせてもらえれば、少しばかり甘っちょろい。

 

「自分は、しあわせそのものだ」

 

これが正解だと思う。

 

人間は、ひとり残らず、誰だって、間違いなく、「しあわせ」そのもので形作られているのだ。

 

 

 

ところで、越後の北端の田んぼのど真ん中で育った私には、スカイツリーがちやほやされているこの時代にあっても、やはりどこか東京タワーというものの存在をひいき目に見てしまうようなところがある。上京して10年以上が経つが、いまだに電車の中などから赤く発光するタワーが見えると、「おお~」とかなんとか声を漏らして、窓にへばりつくようにしてその姿を拝してしまう。根っからのおのぼりさん気質。たぶん一生抜けないんだろうな……。

 

初めて東京タワーにのぼった夜のことは忘れられない。大学生一年生の初夏、つまり東京に暮らし始めて割とすぐのことだった。

 

エレベーターで地上250メートルの特別展望台までのぼり、興奮を抑えつつ、まずは一周、ゆっくりと夜景を見て回った。はじめこそ「やっぱり、都会の夜景はすんげ~な~!」とか言いながらはしゃいでいた私であったが、しかし、一周し終わる頃には、「物足りなさ」としか表現しようのない、つまらない感情を抱いている自分を発見することになるのだった。

 

綺麗、ではあるのだ。すんげ~、とも思うのだ。でも、確実に、「何か」が足りない……。私がずっとずっと思い描いていた憧れの中に、確実にあるべきはずの「何か」が、そこには絶対的に欠けている……

 

はっとした。

 

東京タワーの展望台から見る東京の夜景には、「東京タワーそのもの」は、含まれていないのだった。

 

東京タワーの堂々とそびえ立つ夜景を期待して、東京タワー本体にのぼるだなんて、そしてそこから東京タワーを探すだなんて、とんだパラドクスだった。そんな単純なことに気づけなかった自分が、なんだかひどく情けなかった。

 

 

 

 

……上記は、単に「ちょっぴりおばかな田舎娘の、ほんのり切ない笑い話」として軽く読んでいただいて構わないのだが、しかし。

 

私たち、実は、これと同じようなパラドクスに、はまりこんではいないですか? というお話で。

 

 

 

自分という存在の本質が「しあわせ」なのだとしたら、それを自分の外側に求めても、まったく意味なんかないことがわかるだろう。

 

自分の外側にある「しあわせ」らしきものは、「しあわせ」そのものである自分から放たれた「しあわせ」を反射したものに過ぎず、つまり「しあわせ」そのものでは決してないのだ。

 

太陽の光を受けて輝く月が、決して太陽そのものではないように。

 

 

 

東京タワーから見る夜景に、東京タワーの姿はない。

 

「しあわせ」そのものである自分の外側に、本物の「しあわせ」は決して見つからない。

 

 

 

「しあわせ」は見つけるものではない。

 

ただ、認めるものなのだ。

 

 

 

 

 

東京タワーは今日も明々とこの街を照らしてくれるだろう。

 

いつもありがとう。おつかれさまです。