これある故に彼あり、これ起る故に彼起る

2017年2月8日

おはようございます。小出遥子です。

これある故に彼あり、これ起る故に彼起る、
これ無きゆえに彼無く、これ滅する故に彼滅す

……というのは、「縁起」の法を説いた際のお釈迦さまのことばですが、
これ、ほんとうにほんとうのことだな~、と、あらためて思っています。
(って、釈尊相手にエラそうですね、私。笑)

私たちは、普段、「見る主体」と「見られる客体」が
別々のものとして存在していると思って生きています。

「見る」だけじゃないですね。
「聞く」も、「嗅ぐ」も、「味わう」も、「感じる」も同じです。
そこにはその行為の主体と客体があると思っています。

私がカップの中のコーヒーを見た。それは私に見られた。
私がカップとソーサーのぶつかる音を聞いた。それは私に聞かれた。
私がコーヒーの香りを嗅いだ。それは私に嗅がれた。
私がコーヒーを味わった。それは私に味わわれた。
私がコーヒーの温度を感じた。それは私に感じられた。

でも、これってほんとうなんでしょうか?
主体(私)と客体(コーヒー)は、
ほんとうにこんな風に分かれているのでしょうか?

カップの中のコーヒーという物質が独立して存在しているわけではなくて、
「見る」が起こり、「聞く」が起こり、「嗅ぐ」が起こり、
「味わう」が起こり、「感じる」が起こった、その瞬間、
0.0000000000000000001秒ほどのタイムラグもなく、
まったく同時に、完全・完璧に同時に、
「見られ」て、「聞かれ」て、「嗅がれ」て、「味わわれ」て、「感じられ」るべき
コーヒーという名で総称されるような質感が立ちあらわれてくる
……と言うことはできないでしょうか?

そしてそれは、「コーヒー」だけじゃなく、
そのまま「私」にもあてはめられる。

この世界に独立して存在しているものなんか、
きっと、なにひとつとしてなくて……。
すべては広大なご縁の網目の中で「仮に」立ちあらわれているだけで……。

それだけなのだけれど、それだけだからこそ、
ここにこうして「ある」ということが
理屈を超えて素晴らしいことなんだなあ、と……。

そんなことを、しみじみと感じています。

 

よい一日をお過ごしください◎