苦しみも“いのち”のあらわれ?

2017年2月12日

おはようございます。小出遥子です。

ある方から、

「苦しみも“いのち”のあらわれなのでしょうか?」

との問いかけをいただきました。
今日はそれに仏教的にお答えしてみようと思います。

仏教は、お釈迦さまが、

「人生は苦である」

という事実を洞察されたことから始まっています。

ここでいう「苦」とは、
「思い通りにならないことへの苦悩」という意味です。

お釈迦さまは、「苦」の代表格として、

「生」(生まれること)
「老」(老いること)
「病」(病むこと)
「死」(死ぬこと)

の4つをあげました。

いずれも、個人のいのちに関わることですよね。
確かに、生老病死のどれも、個人の一存では
どうにもならない(思い通りにならない)ことです。

生まれたくなくても、生まれるときは生まれるし、
老いたくなくても、老いるときは老いるし、
病気になりたくなくても、病気になるときは病気になるし、
死にたくなくても、死ぬときは死にます。
どんなに嫌でもそこから逃れることはできない。
それがこの世の法則だからです。

で、です。

お釈迦さまは、そういった「苦」からの解脱の道を説かれた。
その道が「仏道」であり、そのための教えが「仏教」である。

……というのが一般的な仏教解釈ですし、
それはその通りなんですけれど、
でも、おかしくないですか?

だって、お釈迦さまは、いま、肉体をもって生きていません。
亡くなっているんです。
死因は食中毒だったと伝えられています。
そのときお釈迦さまは80歳だったそうです。

いくらお釈迦さまでも
生老病死それ自体から逃れることはできなかったということです。

しかし、お釈迦さまは、それでも「苦」からは自由であった。

これはいったいどういうことなのか?

私はこう思います。

生老病死に代表されるすべての「苦」が、
そのまま、個人を超えたところにある
大きな“いのち”のあらわれであることを
理屈を超えたところから理解し、受けいれ切ったとき、
そこには本来的な安心感が広がっていく。
そこに「苦」を超える道が生まれる。

お釈迦さまがおっしゃっていたのは、こういうことなのではないでしょうか?

「苦」をもたらす状況がいったいどこからやってくるのか、
その出所を静かに見つめていった先に、状況は状況のままに、
「苦」が「苦」ではなくなっていく地点が見出される、というか。

だから、冒頭の問いかけにお答えするとしたら、

「苦も“いのち”のあらわれであることを完全に見抜き、
受けいれ切ったときに、苦は苦ではなくなります」

ということになります。

なんだか逆説的ですけれど、そういうことなのだと思います。

うーん。うまく説明できた気がしないな……。
またチャレンジしてみますが、今日はこのあたりで!

 

よい一日をお過ごしください◎

 

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