つながっているということ。

2014年11月2日

先日、このブログに、「悼むこと。」という記事を載せた。すると、友人からこんなコメントが届いた。

 

「今日は父の命日なの。ブログ、とても染みました。ようこちゃんのあたたかな大きな手で撫でてもらったような気分。奈良の大仏様のあの手を思い出した。」

 

これを読んで、私はなんだかとても不思議な気分になった。

 

と言うのも、その日、私は、実はまったく違う内容の記事を書こうと思っていたのだ。だけど、いざPCの前に座ったら、いつの間にか、死というものに対する感慨を書いていたのだった。

 

そして、さらに不思議なことに、あの記事を書き終えた瞬間、その友人の笑った顔が、私の心いっぱいに広がったのだった。なんの脈絡もなく。ただただ、ふわっと、広がったのだ。

 

もちろん、私は、その日が彼女のお父さまのお亡くなりになった日だということを知らなかった。

 

見えないボールを彼女が投げ、それをキャッチし、再び投げ返していたのだ。私自身、知らない間に。

 

不思議な気もしたけれど、とにかく、彼女の心をあたたかくすることができたのなら、こんなに嬉しいことはないな、書いて良かったな、と思った。

 

 

 

「つながっている」としか思えないことが、日常を送る上で、まま、ある。

 

私たちは、たぶん、本当はいつだって、見えないなにかを相互に送り合っている。

 

送り合っている――?

 

いや、本当は、その「なにか」は、この世界いっぱいに、いつだって広がっている。

 

どこにいても、なにをしていても。

 

だって私たちの本体は、目に見えないエネルギーそのものなのだから。

 

私は、彼女の「思い」をキャッチしたのではなく、「彼女自身」をキャッチしたのだと思う。

 

 

 

私たちの本体は、目に見えないエネルギーそのもの。

 

だけど、私たちはこの世で生きている限り、常に、肉体という名の最大の幻想をまとっていなくてはいけない。

 

肉体という幻想が、分離という名のさらなる幻想を呼ぶ。

 

本当はいつだってつながることができるのに、別々の肉体をまとっているがために、私たちはそれを最初から諦めてしまうのだ。

 

 

 

でも。だからこそ。

 

肉体を持っているからこそ、日々分離の幻想に苛まれているからこそ、「つながっている」と思えたときのよろこびを、最大限に感じられるのだ。

 

それこそが、生きる醍醐味なのかもしれない。

 

 

 

本当はいつだって「つながっている」ことを知りたくて、そのよろこびを最大限に感じたくて、私たちは肉体という名の不自由に甘んじているのかもしれない。

 

きっと、ぜんぶ、自分が望んだことなのだ。

 

 

 

冒頭の友人は、重ねてこんなことも伝えてくれた。

 

「いつかはなくなるこの肉体で、いまという遊びを味わいたい。」

 

 

 

 

 

 

 

雨上がりの洗われたような空気がすがすがしい東京の朝です。

 

いましか味わえないすべてを味わって味わって味わって……生きていきたいですね。