執着したっていいじゃない。

2017年2月20日

おはようございます。小出遥子です。

よく、「仏教は無執着を説く」と言われます。
それは、実際、その通りだと思うのです。
仏道とは、無執着の道のことです。

でも、ひとつ注意が必要なのは、

「仏道を究めること=一切の執着と無縁になること」

……とは、決して言い切れない!!! ということで。

もちろん、ひとくちに仏教と言っても、そこにはいろいろな流れがあるので、
一切の執着が心身に起こらないことを目指して修行をする仏教もあります。

でも、大乗仏教というか、日本に広く伝わった仏教、
とくに鎌倉期以降の流れにおいては、

「執着それ自体を根絶しよう!」

というよりは、

「執着したっていいじゃない、人間だもの」

という、おおらかな受容精神の先に、
逆説的に無執着の世界が開けている……

という思想が展開されているのが一般的なのではないかなあ、と思います。

誰かやなにかに対する執着を持つことって、もちろん、
それ自体が苦しみでもあるのですが、そこにプラスして、
「ああ、こんな執着心を持っちゃって、みっともないなあ。
自分って未熟だなあ。ダメだなあ。愚かだなあ。」
という自己否定の思いが湧き上がってきて、
それによって二次災害(?)的に苦しみが増していく……
ということもあるんじゃないかなあ、って。
むしろ、そっちの方がつらかったりするんですよね。

でもね、そもそも、執着心って、
自分の意志ひとつでどうこうなるものじゃないと思うんです。

どんなに「執着したくない!」と思っていても、
執着してしまうときは執着してしまうし、
逆に「あの対象に執着しなさい!」と命じられたところで
(「そんなことってあるの?」という声が聞こえてきそうですが。笑)
どこをどうひっくり返しても執着心が湧き上がってこないことだってある。

執着、それ自体、自分の思い通りになるものではないんです。

なぜなら、私たち、自分ひとりで生きているわけではないから。
広大なご縁の網目の中に、生かされているのだから。

執着心が湧き上がってきたときは「ご縁がそうなっていたらから」。
湧き上がってこなかったときも「ご縁がそうなっていたから」。
すべて、ご縁の中で、湧き上がったり、湧き上がってこなかったりしているんです。

その事実をまっすぐに見つめたときに、
執着に翻弄される個としての自分を生かしている
“大きないのち”とでも呼ぶべきなにかの存在に気づかされて……

ああ、なんだ。
そもそも「自分“の”執着」なんか、どこにもなかったじゃないか、と。
すべて、大きないのちのあらわれとして、
あるべき姿を見せてくれているだけじゃないか、と。
ただ、そこにくつろいでいればいいだけじゃないか、と。

そこに広がる「安心(あんじん)」の世界こそを、
そのまま無執着の世界と呼んでも良いのではないかな。

そんなことを思っています。

 

よい一日をお過ごしください◎

 

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【3/16(木)】Temple@神谷町光明寺
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