「引き寄せ」の真実

2014年11月6日

つい先日、2日間ほど京都に遊んだ。半分仕事ではあったが、随分楽しい旅となった。未来が広がっていくような話し合いもできた。

 

今回の旅では、行きも帰りも夜行バスを利用した。あれ、身体は少々キツイけれど、時間は有効に使えて、なかなか悪くないものだな、と思った。

 

夜行バスの窓には最初からカーテンがかかっていて、外がどうなっているのかさっぱり知ることができないし、バスが動き始めて30分もすれば車内は真っ暗になるし、そうなってくると、ひたすらに目を閉じて、バスの揺れに身体を任せるだけ……となる。そして、気が付いたら朝で、「あと10分ほどで京都駅に着きます」などというアナウンスが流れて目を覚ます。カーテンの隙間から外を眺めてみれば、そこはもう、見慣れぬ街。自分は座って目を閉じていただけなのに。ワープしてしまったようだ……と、毎回少しばかりびっくりしてしまう。

 

新幹線だったら車窓の風景を眺める、という行為が、自分のいまいる場所をはっきりと認識するのに役立つが、夜行バスの旅にはそれがまったく欠けている。点から点へ、ひとっとび。移動の過程をすっかり抜かしてしまったような……なんだかズルをしてしまったような……。そんな気分が、少しだけ頭をもたげてきたりもするが。

 

 

 

しかし。

 

 

 

そもそも、自分が「移動する」という行為は、可能なのだろうか?

 

私たちは、生まれてから死ぬまで、一度も「ここ」を離れたことなどないのではないか?

 

 

 

動いているのは、自分の方だろうか?

 

それとも、風景の方だろうか?

 

自分はこの場からまったく動かず、ただ、目的地の方が私に近づいてきたのだとしたら?

 

 

 

これ、決して荒唐無稽な論ではないと思う。

 

 

 

よく使われるたとえでは、カーナビの真ん中に現れる三角。▲←この、自分の乗っている車をあらわすマーク。あれって、実は一ミリたりとも画面の真ん中から動いていないのだ。動いているのはマークの周りの地図だけ。私はゲームをまったくしないので良くわからないけれど、ドラクエとかもそうなのでしょう? 主人公はいつだって画面の真ん中にいて、その場で足踏みをしているだけ。風景画面の方が流れていって、敵やらお城やらの方から姿をあらわしたりするでしょう?

 

これが、私たちの生きる「現実」の世界でも起こっているとしたら?

 

三角マークとしての自分は、いつだって「いま」「ここ」にいて、一ミリも動くことなく、ただただ流れる風景を「いま」「ここ」で楽しんでいるだけなのだとしたら?

 

 

 

私が京都に行ったのではなく、京都が私の方に近づいてきた、というのが正解。

 

私が職場に行ったのではなく、職場が私の方に近づいてきた、というのが正解。

 

私が友人に会いに行ったのではなく、友人が私の方に近づいてきた、というのが正解。

 

私が欲しかったバッグを買いに行ったのではなく、欲しかったバッグが私の方に近づいてきた、というのが正解。

 

 

 

そう考えれば、「引き寄せ」なんて簡単だ。

 

だって、私たちは日常的に、いろんなものを、場所を、人を、「引き寄せ」て生きているのだから。

 

 

 

私が願いを叶えたのではなく、願ったことが私の方に近づいてきた、というのが正解。

 

 

 

 

 

この意識さえあれば、生きることはもっともっと楽になるし、もっともっとたのしくなると思う。

 

存分に「引き寄せ」て、「いま」「ここ」の自分をたのしませてあげよう。

 

どうぞ、お試しあれ、です。