「叶う」から「願う」のだ

2014年11月7日

昨日の記事で、

 

私が願いを叶えたのではなく、願ったことが私の方に近づいてきた、というのが正解。

 

と書いた。自分自身はいつだって「いま」「ここ」にいて、一ミリも動かず、ただただ流れゆくすべてを見ている。自分が近づいていくのではなく、すべてが自分に近づいてきているだけなのでは? 「引き寄せ」って、もしかしてコレのことなんじゃ……? といったような内容だった。

 

すると、友人がこんなコメントをくれた。

 

願ったことが私に近づいてきた、その感覚すごくわかります!
私が叶えた、と傲っていると、また離れていくような気もしています。

 

本当にそうだなあ、と思った。

 

 

 

「私が叶えた」なんてことは、本当にはひとつとしてなくて、もしかしたら、「私」の目の前で展開される事象は、最初からすべて決まっているのかもしれない。

 

仏さまやら神さまやら、まあそういった存在によって超緻密に織りなされた縁の網目の中のほんの一部を切り取って、私たちは「願った!」「叶った!」と遊んでいるだけなのかもしれない。

 

 

 

願いが叶いやすい体質の人というのが、この世には一定数存在するが、彼らはもしかしたら、叶うことが分かっていることしか願っていないのではないか。だからこそ「引き寄せの達人」「願望実現の達人」になれるのではないか。

 

願うから叶うのではなく、叶うから願うのだ、という世界。

 

すべてが同時の世界。

 

そこを、彼らは生きているのだろう。

 

 

 

たぶん、私たちは、最初からすべてを知っている。

 

いや、最初は、すべてを知っていたのだ。

 

でも、生きている間に、自分の本来の性質とは違うこと(簡単に言えば、もともと備わった「良心」に背くようなこと)をたくさんするようになって、それがカルマとなって積み重なり、目が曇って、「すべてを知っている」ということを忘れてしまうのではないか。

 

 

 

「引き寄せ体質」とか「願望実現体質」とか言われる人たちは、たぶん、そもそもそれらのカルマを作らないように注意深く生きている人たちか、もしくは積んだ端からそれらを解消している人たちなのだと思う。

 

自分の中がいつだって清潔で、にごりがないのだ。

 

だからこそ、「叶うこと」がクリアに分かって、それを素直に「願うこと」ができる自分でいられるのだと思う。

 

 

 

「叶うこと」というのは、「自分がやるべきこと」とイコールなのだろう。

 

人にはそれぞれ与えられたお役目というものがあって、それをしっかりと果たしていくときに、この肉体を持った自分と、本当の意味での「自分」、縁の網目そのものすべてである「自分」とが、完全に一致するのだろう。

 

役割をしっかりと果たしていく自分というのを、心から「願って」、それを「叶えて」いくことができるのだろう。

 

そこにはきっと、本当の意味での「よろこび」しかないのだろう。

 

 

 

 

 

そんなことを、思いました。