本当の意味での「よろこび」って?

2014年11月8日

「叶うこと」というのは、「自分がやるべきこと」とイコールなのだろう。

 

人にはそれぞれ与えられたお役目というものがあって、それをしっかりと果たしていくときに、この肉体を持った自分と、本当の意味での「自分」、縁の網目そのものすべてである「自分」とが、完全に一致するのだろう。

 

役割をしっかりと果たしていく自分というのを、心から「願って」、それを「叶えて」いくことができるのだろう。

 

そこにはきっと、本当の意味での「よろこび」しかないのだろう。

 

 

 

上記は昨日の記事の最後の部分ですが、今日はそれにちょっと補足します。

 

 

 

そこにはきっと、本当の意味での「よろこび」しかないのだろう。

 

……というのは一体どういうことかと言うと、

 

この肉体を持った自分の願いが、そのままイコールで、本当の意味での「自分」、縁の網目そのものすべてである「自分」の願いとなり、それはつまり、神さまやら仏さまやら大宇宙やらサムシング・グレートやら(……だんだんアヤしくなってきましたね~!)まあそういった名前のつけられた、なんらかの意志を持った、目に見えない存在の願い、そのものでもある、ということで。

 

つまり、神秘的な言い方になってしまうけれど、自分が、自分に与えられた役割を、自覚を持って、しっかりと果たしているとき、神さまや仏さまなどと呼ばれる存在は、大いにおよころびになっていることでしょう、というお話で。

 

だって、その時点では、「自分」というものは、すでに、個別の意識をもった自分ではなく、神仏の意志、そのものとしての「自分」と、ぴったりと重なっているのだから。

 

この、神仏と「自分」との間に、一ミリもズレがない、という感覚をもって、本当の意味での「よろこび」となるのでしょう。

 

 

 

で。

 

この「神仏としての自分の願い」=「自分に与えられた役割」をしっかりと自覚を持って果たしていく、っていうのは、必ずしも、社会的な成功をおさめることと、ばっちりつながるわけではない、というのが、少しばかり厄介な話で。

 

他人から見れば、地味で、暗くて、損な役回りを引き受けることになる存在も、少なからず出てくる、ということだ。

 

そしてそれは、たぶん、個人の意志ではぜったいに選べない。

 

 

 

この宇宙に散りばめられた無数の生命のひとつひとつに、それぞれにしか果たせない役割というものがあって、その役割のひとつひとつが、この宇宙の構成に、そのまま「なくてはならない」ものとなっている。

 

ほんの小さなものでも、たった1ピース欠けるだけで、パズルの絵は完成しないように。

 

そこに私たちの好みを差し挟むことなどできないのだ。

 

泣こうが喚こうが、「そのように決められている」のだから。

 

 

 

でも、ここで大事なのは、「(他人から見て)地味で、暗くて、損な役回りを引き受けることになること」=「不幸」では、決してない、ということだ。

 

「自分」と神仏とをつなぐパイプの中に、詰まり(カルマ)がなければ、神仏の意志によって決められた行動のすべてを、そのままイコールで自分の「やりたいこと」にしていくことができる。そして、自覚を持ってその「お役目」を果たしていくことが、自分自身の最大のよろこびとなっていく。

 

神仏の願いを自分の願いとして生きていくこと。そして、しっかりと役割を果たしていくこと。

 

それ以上のよろこびは、実は、この世には存在しない。

 

そこには、もはや、「感謝」しか存在できないからだ。

 

 

 

そういう風にできているのだと思う。

 

 

 

 

 

パイプの詰まりの解消法、つまりカルマの解消法については、過去記事をご参照ください。

 

「前世」とか「因果応報」とか。(その1)

「前世」とか「因果応報」とか。(その2)

「前世」とか「因果応報」とか。(その3)