いつだって会える

2014年11月9日

会いたい人たちの顔を順番に思い浮かべていった。

 

物理的、時間的に遠く距離が隔たっていたり、もしくは心理的な……こちらが物怖じしてしまったり、双方に変な遠慮や意地があったり……そういう距離によって隔てられていたり、あるいは死という問題によって、「こちら」と「あちら」とに、絶対的に隔てられていたり……。

 

そんな彼や彼女のことを、ひとりずつ、順番に、丁寧に思い浮かべていった。

 

しばらくすると、会いたいのか、会いたくないのか、自分でも判別できない人たちの顔も出てきた。

 

会いたいと思う分量と、会いたくないと思う分量とが、まったく同じなのだった。

 

「愛憎」という言葉が、ふいに、浮かんできた。

 

彼らに対する憎しみや、それと同じ分量だけある愛情や、やさしさや、かなしみや、寂しさ。いろんなものがぐぐぐと押し寄せてきた。死んだはずの感情は、まだまだ元気に私の中でぴょんぴょんと跳ねまわっていた。

 

なんだかやり切れなくなったところで、目を閉じて深呼吸をして、瞑想に入っていった。

 

 

 

自分の肉体の感覚が少しずつ消えていき、最後に頭のてっぺんからすうっと意識が抜けていった、その瞬間。

 

私は、「彼ら」と会っていた。

 

 

 

いや、正確に言えば、「会っていた」わけではない。

 

そこは個別の肉体、そして意識が、一切、存在していなかった。ひとつひとつ指を差して、「これは私!」「それは彼!」「あれは彼女!」と言えるような世界ではなかった。

 

私も、彼も、彼女も……そこではすべてがいっしょくたになって、でも、ひたすらに静かで、あたたかくて、なつかしくて、ただただ「ひとつ」としてたゆたっていて……。

 

 

 

彼や、彼女は、いつだって「ここ」にいた。

 

いつだって「ここ」で、私とともに、あった。

 

 

 

分厚い雲を突き抜けた先には、いつだってぴかぴかの青空が広がっている。

 

荒々しい波の向こうに潜って行けば、そこにはいつだってひたすらに静かな海が広がっている。

 

 

 

雲として、波として、個別の意識を持っている私たちは、そのすべてをふくめ抱く、それ自体で完璧な、青空や海というものの存在を、すっかり忘れ去ったままに生きている。

 

 

 

でも、青空や海はいつだって「ここ」にあって、それはたった「ひとつ」で……それゆえに、「彼ら」には、いつだって「ここ」で会えるのだ。

 

 

 

私の感じる青空、彼の感じる青空、彼女の感じる青空は、まったく同じ、ひとつの青空。

 

私の感じる海、彼の感じる海、彼女の感じる海は、まったく同じ、ひとつの海。

 

 

 

青空を、海を、感じることさえできれば、「彼ら」には、いつだって、「会える」。

 

距離も、感情も、生も死も、ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶを、圧倒的にふくめ抱いた「いま」「ここ」で、私たちは、いつだって、「会える」のだ。