Templeとは

2017年2月23日

おはようございます。小出遥子です。

昨日、このサイトのColummnコーナーのReportというコンテンツを更新しました。
先日の円覚寺さんでのTempleの様子をまとめたものです。

2017.2.12 Temple@円覚寺レポート&アンケート
http://temple-web.net/column/328/

写真も盛りだくさんですし、最後には参加者の「生の声」として
アンケート結果もまとめてあります。
あの日の静かな熱気とあたたかな雰囲気が少しでも伝わればいいな、と思います。
ぜひ、ご一読くださいませ◎

さて、Templeという場について、私はよく、このように説明します。

Templeは、お寺をはじめとする(広義での)「宗教空間」で行われる対話の集いです。
お寺というのは、端的に表現すれば、仏さまの家です。
仏さまの家の中では、みな、ほんとうの意味で平等です。
お寺の外で身にまとっている肩書きや社会的な役割を、ここでは一度脱ぎ捨てて、
ただの「なにものでもないいのち」としての自分に戻ることがゆるされています。
そこには、果たしてどんな感覚が、そしてことばが、生まれてくるでしょうか?
ここには正解はありません。結論も、納得感も必要ありません。
ご縁の中で湧き上がってくるものたちを、ただただ、ふわっと受けとめてみてください。
それらのすべては、そのまま、「いのち」のあらわれです。
どうかゆったりとくつろいで、
瞬間ごとのかけがえのない出会いをおたのしみくださいませ。

……うん。ほんとうに、その通りですよね。
「自画自賛かよ~」と言われそうですが、
これは、ほんとうに、まったく、その通りなんです。
お寺(をはじめとする宗教空間)においては、みな一様に、本来の自分に戻れるんです。
(戻れるはずなんです。本来的には。そこに宗教の意義がある。)
本来の自分、というのは、肩書きや役割を取り払ったところにある
ただの「なにものでもないいのち」としての自分のことです。

でも、ね。
ぶっちゃけて言ってしまえば、なにもお寺にいるときだけが
「なにものでもないいのち」としてあれる時間じゃないんです。
ほんとうは、いつだって、誰だって、どこにいたって、
間違いなく「なにものでもないいのち」として生きているんです。

とは言え、娑婆においては、私たちはどうしたって役割を生きなきゃいけないわけだし、
「なにものでもないいのち」としてくつろぐ時間なんか、
よっぽど意識しない限り、ほとんど取れないでしょう。

だからこそ、Temple(お寺)という舞台装置が必要なんですよね。

「ああ、そうだった。自分は本来、なにものでもないいのちだった」
「自分だけじゃない。ほんとうは、すべてが、
大きな“いのち”のあらわれとして、いまここに躍動しているのだった」
「ただ、そこに身をゆだねて、くつろいで生きていけばいいのだった」

それを思い出せたら、「ただ、いのちを生きていこう」と、
純粋な力が湧いてくるでしょう。

忘れてしまっても、ただ、思い出せばいい。
何度でも忘れて、何度でも思い出せばいい。

「思い出す」ための一助として、これからも、いろいろな場所でTempleを開きます。
応援、よろしくお願いいたします。

よい一日をお過ごしください◎

 

残り5名で定員です。お早目にお申し込みくださいませ。

【3/4(土)】≪Temple School 特別イベント第1弾≫
臨済宗円覚寺派管長・横田南嶺さん×バランストレーナー・小関勲さん対話
「“いのち”と“つながり”のお話」 &ヒモトレワークショップ

http://temple-web.net/event/39/

こちらはまだお席に余裕ございます。
ご友人等お誘い合わせの上、お気軽に遊びにいらしてくださいね。

【3/16(木)】Temple@神谷町光明寺
http://temple-web.net/event/45/