「さとり」は「差」「取り」?

2017年2月24日

おはようございます。小出遥子です。

『教えて、お坊さん!「さとり」ってなんですか』
というタイトルの本を出しておいて申し訳ないのですが……。
正直、現在の私は、「さとり」ということばを、
みずから積極的に用いたいとは思っていません。

やっぱり、「さとり」というと、
そこにスペシャルな響きが生まれてしまうからです。

なんだろう。「さとり」ということばには、どうも、
人間の自我を刺激するようななにががあるらしいんですね(笑)。

だから、どうしても、
「あの人はさとっている!」「あの人は素晴らしい!」
「あの人のさとりに比べて、あの人のさとりはたいしたことない」
「私はぜんぜんさとっていない、早くさとりたい」
とか、そういう話になってしまいがちというか……。

でも、「さとり」は「差」「取り」とも言われるように、
(誰が言い出したんですかね? うまいこと言いますねえ)

「私」と「誰か」、「私」と「なにか」、
「誰か」と「誰か」、「なにか」と「なにか」、
あるいは「誰か」と「なにか」との間に、
ほんとうのところ、一切の「差」なんてなかったんだ!

……と、理屈を超えたところから覚知することを指すことばなので、
実際のところ、
そこには「さとった人」も「さとっていない人」も
「さとりのレベル」も生まれようがなくて……。

とは言え。

「いやいや、そんなこと言っても、やっぱり△△寺の○○老師は素晴らしい人ですよ。
ほんもののさとりを得られたお方です。
あのお方に比べると、私なんか、まったくさとっているとは思えません。
○○老師はいつでも穏やかで落ち着いていて
背筋が伸びていてことばや佇まいに説得力があって……。
私なんかはいつだって不安で落ち着かなくて猫背で誰にも話を聞いてもらえません。
それでも、そこに“差”なんかないと、ほんとうに言えますか?」

……という風に、どうしたって誰かやなにかと自分を引き比べて
ものを考えてしまいますよね。

でも、ちょっと冷静になってみてください。

「さとった老師」と、「さとっていない私」とを並べて見ている“それ”は、
ほんとうに「さとっていない私」なのでしょうか?

そこに「差別」の意識が生まれるよりも先に、
「誰か」や「なにか」と「私」とを、まったく平等に、
並列に見ている“なにか”があるはずなんです。
それは、ほんとうに、自分が自分だと思っている「私」なのでしょうか?

あたまで答えを出さずに、ただ、感じてみてください。

それができた瞬間に、「さとり」のほんとうの意味がわかると思います。

 

よい一日をお過ごしください◎

 

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