「どうぞ、私をお使いください。」

2014年11月15日

以前、「ゼロ地点から」という記事で、「私はお寺や神社に行っても、あーだこーだとお願いごとをしない。するのは感謝だけよ(キラーン☆)」みたいなカッチョイイにも程があるようなことを(得意気に)書きましたが、すみません、最近の私、神社でもお寺でも、ばっちり「お願いごと」しちゃってます……。

 

 

 

その「お願いごと」は、

 

「どうぞ、私をお使いください。」

 

というもの。

 

 

 

「この世に生まれた役割を、しっかりと果たしていきたいです。ぜんぶ差し上げます。どうか、どうぞ、私をお使いください。」

 

 

 

この「私」を「使う」主語は、言うまでもなく、「神さま」とか「仏さま」とか呼ばれる存在です。

 

つまり……これは言うなれば、「宣言」ですね。「お願いごと」と言うより、「宣言」です。

 

 

 

「あなたを信頼しています。あなたにすべてお任せします。すべて差し上げます。どうか、私という人間を、存分にお使いください。」

 

 

 

これ、だから、意味合い的には「南無阿弥陀仏(阿弥陀さまに帰依します)」と同じなんです。私の中では。

 

こう宣言しているときの私は、「私」というものを(つまり「小出遥子」というものを)、完全に投げ出してしまっているから。

 

 

 

この世に存在するものには、ひとりのこらず、ひとつのこらず、なんらかの役割、役目があるということを、私は心の底から信じていて。「信じる」というか、本当に、まったく、これっぽっちも「疑っていない」。

 

だって、すべてはつながって存在しているから。すべてがつながって存在していることを、理屈じゃなく、知ってしまったから。

 

どん底の中で見た光は、誰がなんと言おうと「本物」でした。

 

「生かされている」ということは、つまりそのまま「役割がある」、ということなんです。

 

 

 

でも、その「役割」っていうのは、いくら人間が個別に自分の頭を使って考えたところで、決して見つかりっこないもので。

 

だって個別の人間としての視点からでは、決して全体図が見えないようになっているから。

 

それは、「神さま」や「仏さま」などと呼ばれる、なにか目には見えないけれど、確実にこの世界を回しているエネルギー、そういったものにしかわからないもので。

 

だからこそ、「お任せ」するしかないんです。

 

 

 

でもね、本当は、「神さま」や「仏さま」は、自分と離れて存在しているものではなくて。

 

神仏の正体は、実は、自分自身だったりするのです。決して外側の存在じゃない。

 

 

 

昨日も書いたけど、自分の本体は、「雲」ではなく「青空」です。その「青空」を、「神仏と一体となった自分」と考えてください。

 

でも、ふだんの生活の中では、どうしたって「雲」としての自分を主体として行動してしまいます。「雲」としての私こそを、本当の私だと錯覚してしまいます。

 

でも、本当は、自分の本体は「青空」そのものなんです。

 

神仏と一体となっている自分こそが、本当の私なんです。

 

 

 

神社やお寺は、そのことを思い出させてくれる装置です。そこに立つだけで、「雲」としての私が薄くなっていって、「青空」が顔を出し始めるような気がします。長年「祈り」を引き受け続けてきた「場」のパワーって、やっぱりあると思います。

 

 

 

「どうぞ、私をお使いください。」

 

というのは、言うなれば、青空としての私、神仏と一体となった私に対する宣言です。

 

 

 

宣言した途端に、分裂していた自分が、すっとひとつにまとまります。

 

 

 

すると、どこからともなく「よろこび」が溢れてきて、その「よろこび」の中で、自分の果たすべき役割をしっかりと果たして、そのことをさらなる「よろこび」として、しっかりと地に足をつけて生きていくことのできる自分になっていきます。

 

 

 

宣言って魔法です。

 

 

 

 

 

「私をお使いください。」

 

「あなたを信頼しています。あなたにすべてお任せします。すべて差し上げます。私という人間を、存分にお使いください。」

 

 

 

どうか。

 

どうぞ。