私は仏教徒ではありません。それでも私は仏教徒です。

2014年11月16日

あなたは仏教徒なのですか?

 

 

 

割とよく受ける質問ですが、私は毎回、答えにつまってしまうのです。

 

 

 

私は、仏教徒なのだろうか――?

 

 

 

確かに、私は仏教が好きです。お寺という場所自体も好きだし、仏教美術も好き。お坊さんのお話やお経を聴くのも好き。「かたじけなさに涙こぼるる」といった事態に陥ったことだって数えきれないほどです。(西行さんはお寺ではなくお宮で泣いたわけですが。)仏教は、いままで見聞きした様々な教えの中で一番馴染み深いし、自分自身との親和性も高いと思います。自室の本棚にも仏教関係の図書が結構な数並んでいます。「仏縁」としか表現のしようのないありがたいご縁も、いままでの人生、ものすごくたくさんいただいてきました。(果ては「出家してうちの寺を継いでくれ」とのオファーまで……!)

 

私がいま生きているのは、「仏さま」と呼ばれる存在のおかげです。精神的にも実質的にも、何度も何度もいのちを救ってもらってきました。

 

仏教というものがあってよかった。その光に触れることができて良かった。

 

本気でそう思っています。

 

 

 

でも。だからと言って、イコール仏教徒なのか? と聞かれると、そこはやはり「うーむ。本当にそうなのだろうか……?」と腕組みをして考え込んでしまうのです。

 

 

 

いや、いままでだってさんざん、このブログでも、いろ~んな仏教用語を取りあげては、即席ナンチャッテ説法(ひどい言い方だ!)を繰り返してきましたよ。でも、実は、あれってぜんぶ、「自分の中にあるものを、仏教用語を使わせてもらって解説している」に過ぎないんですね。私の場合、「仏教ありき」ではないんです。

 

自分の中にもともとあった、名状しがたい「なにか」を表現するのにぴったりな言葉が、たまたま仏の教えの中から見つかった。だからそれを使わせてもらった、という感じなんですね。

 

厳しい仏道修行に励んだことがあるわけでもない。詳しく仏典を読みこんだことがあるわけでもない。たまたま目に触れた言葉を、私なりに自由に解釈させてもらっているだけ。(でもそこに「自分自身に対する嘘」だけはないようにはしています。自分が本気で「そうだ」と思えないものは、表現しないようにしている。)

 

だから、私がやっているのはいつまで経っても「即席ナンチャッテ説法」なんです。本職の方が見たら「コラ、小出、お前なに適当なこと言ってるんじゃい!」と本気で怒られてしまいそうなことをやっているなって、自覚しています。申し訳ないなっていう気持ちは、常に持っています。

 

私としても、もちろん、いわゆる正当な「仏教」を説いて回っているつもりはなくて。そして私にそんなことができるとも思えなくて……。

 

私にできるのは、自分の中に確かに存在する、この「なにか」を、その時々に出会った言葉を用いて表現していくだけ。いままでは、たまたま自分にとって身近なものだった仏教の言葉を多く用いてきただけで、機会があれば、キリスト教の言葉や、もしくはぜんぜん宗教とは関係のないたくさんの言葉をも引用して、これからもなにかを書いたり話したりしていきたいと思っています。

 

 

 

 

 

……ここまで書いてきて頭が整理されてきました。

 

 

 

私はたぶん、「仏教徒」ではなくて……あえて無理やり表現するのなら……「自分教徒」。

 

そう、私は、「自分教徒」なのだと思います。

 

私が信じているのは、究極的には「自分」だけだからです。

 

 

 

……とか言うと、「お前、どんだけ自分が好きなんじゃい!?」「ていうかどんだけ傲慢なんじゃい!?」との声が聞こえてきそうですが、違うんです。

 

この「自分」っていうのは、個別の人格を持った自分、つまり「小出遥子」のことではないんです。

 

「小出遥子」が消えたところに立ち現れてくる「自分」……それは、この文章を読んでくださっているあなたが消えたところに現れる「あなた」と同一の存在なのですが……それだけを、私は信じているのです。

 

 

 

すべてを知っていて、すべてを動かしている、たったひとつの本当の「自分」。

 

 

 

私は、その「自分」を信じています。

 

その「自分」だけを、信じています。

 

 

 

私が仏教に惹かれるのは、私が私の中に見る、たったひとつの本当の「自分」と同質のものを、仏教の言う「仏」に感じるからです。

 

たぶん、キリスト教だって、イスラム教だって、その他のどんな教えだって、どんどんどんどん突き詰めていけば、そこにはきっと「自分」がいるのだと思う。

 

 

 

すべてに「自分」を見出せるのなら、「○○教」とか「○○教徒」とかいう括りに、意味はなくなってくると思います。

 

だから、「自分教徒」は、たぶんそのまま「仏教徒」だし、「キリスト教徒」だし、「イスラム教徒」でもある……ということです。

 

……って、この言い方は、さすがにちょっと乱暴かな!

 

でも、結構本気でそう思っています。そして、これからの時代の宗教のヒントって、そのあたりにあるんじゃないかな、とも考えています。

 

ははは、ちょっと生意気でしたね。

 

 

 

 

 

明日は今日書いたことを踏まえて、私なりにあたらしい時代のお寺のかたちについて考えてみようと思います。