未来のお寺 その1

2014年11月17日

「将来、お寺はどんな場所になると思いますか?」

 

 

 

先日、あるお坊さんにこう問いかけられました。でも、私はその場ではうまく答えられませんでした。ただひとつ言えたのは、

 

「お寺は……なくなるんじゃないですかね」

 

ということ。

 

言った直後に、「あ、やばい、ぜんぜん言葉が足りてない! ていうか目の前にいらっしゃるのはお坊さんなのに! お寺がなくなるだなんて、不穏にも程があるってば! どどどどどうしよう!?」と思ったのですが、完全にあとの祭り……。その場では、私、もう、どんな言い訳もできませんでした。

 

 

 

それがあまりにも情けなく、悔しかったので……というわけではないのですが、あれから、私なりに、「未来のお寺のかたち」について、いろいろ考えてみました。というか、いままでずっとぼんやりと思っていたことを、言葉に置き換えるという作業をしてみました。

 

ご笑覧いただければ幸いです。

 

 

 

 

 

まず、言い訳から入らせてもらうと(うえーん……私、ダサいなあ!)私が「お寺はなくなると思います」と言ったときの「お寺」っていうのは、「これまでイメージされてきたお寺」という意味なんですね。

 

これまでのお寺に代表されるイメージって、一言であらわせば、「よくわからないけれど、なんとなくありがたいもの」っていう感じだったと思うんです。

 

もっとはっきり言ってしまえば、お寺って、どこか、「敬して遠ざけられる」ような、そんな部分があったと言うか……。「なんとなくありがたいもの」だけど、「やっぱりよくわかんないよね」「自分たちの生活には直接関係ないよね」っていう、そんなイメージを持たれていたと思うんです。実際、大半の人にとって、お寺は、お葬式や法事やお墓参りのときぐらいしか、縁がない場所だったのではないでしょうか。

 

そのイメージが、近い将来、払拭されると思う。というか、すでに少しずつ払拭されつつあると思います。

 

 

 

ここには双方向の動きがあって。まずはお寺側からの働きかけ。いま、多くのお寺が、自主的に一般向けのイベントを開くといったようなことをはじめています。週末座禅会とか、念仏会とか。場所を提供してのヨガ教室とか。お寺主催の小さな文化祭なども珍しくなくなってきました。私もかなりの数のイベントに参加して、楽しい時間を過ごさせてもらってきました。こういったわかりやすい対外的な活動のほかにも、様々な目に見えないところでの、お寺側の、たくさんの、信じられないほどの努力があるのだと思います。そのおかげで、一昔前に比べて、一般の人にとっても、お寺という場所が、ぐんと身近になりました。垣根はどんどん取り払われていっています。

 

でも、ざんねんなことに、多くの人にとって、まだまだお寺は「非日常」の場です。一般の人々は、まだまだ仏教を「日常」のものとして生きるということができていない……というか、生きようとしていない。

 

 

 

それでも、一般の側も、少しずつ、仏教というものに心を開きはじめているような感じは、確かにあります。昨今、「仏教ブーム」などという言葉も聞かれるようになりました。(この言葉に対する違和感は、少し前にハフィントンポストの記事にまとめました。→「自灯明的生き方のススメ ―仏教は「ブーム」なんかになりえない―

 

ありきたりな表現だけど、この不安定な時代に、なにか、自分の心のよりどころを求めるような……物質ではなくて、精神の充足こそを求めていくような……もっとざっくり言ってしまえば、自分自身の「生き方の軸」とでも言うようなものを、いま、たくさんの人が求めはじめているような……そんな動きが、確かに、そこここで見られます。

 

これはなにも仏教に限った動きではありません。もっと言えば宗教に限った話でもないです。包括医学や自然農法など、「昔からある、あたらしい知恵」のようなものが見直されてはじめているようなところも、実は、この話にばっちりつながっていると思う。

 

でもね、ハフポにも書きましたが、「生き方の軸」なんてものが、自分の外側にある、と思っていたとしたら、それは大きな勘違いで。いくら仏さまにすがっても、その「仏」を、自分と離れた遠くの場所に求めてしまったら、文字通り、もとの木阿弥なんです……。

 

仏教だったら「仏」を、包括医学だったら「全体」を、自然農法だったら「大自然」を……とにかくそういった名前で表現される「偉大な力」というものを、最終的に自分自身の「内側」に見出していく。そこを軸として生きていく。もっと言えば、本当の意味での「しあわせ」は、もはやそこにしかないのだと腹を括る。「しあわせ」の基準を、他者にあずけてしまわない。自分の「しあわせ」に、責任を持つ。

 

そういった地点に立たないことには、はっきり言って、いままでとなにも変わらなくて。

 

(「競争に勝つこと」「お金と地位と名声を手に入れること」……それさえ手に入れば「しあわせ」になれると思って、私たちがいままで必死で追い求めてきたこれらの価値は、すべて、自分の「外側」にあるものでした。でも、「外側」の価値と、自らの「しあわせ」は、実はまったくイコールでつながれているわけではなかった。みんな、少しずつ、それに気づきつつある。「外側」の価値というものに対する信仰は、実はとっくの昔に崩壊をはじめていました。他者に自分自身の「しあわせ」をあずけるような世界に戻ってしまっては、意味がないのです。)

 

気づいた人から、自分の足で立ちはじめています。そこにしか本当の「価値」はないのだと、本当の「しあわせ」はないのだと、本当に自分が求める「世界」はないのだと……大いなる自覚の連鎖がはじまっているのです。

 

うつくしく整えられた、本当の意味での「自分」というものを唯一のともしびとして、自らの足で、自らの人生を、力強く歩んでいく……。そんな「自灯明力」とも呼ぶべきものを蓄えた人々が、これからどんどん誕生して、まったくあたらしい時代を築き上げていくのだと思います。(ここで注意が必要なのは、自灯明は法灯明とセットでなければならない、というところです。自灯明の「自」は、自分勝手の「自」ではありません。これについては近いうちに詳しくまとめます。)

 

 

 

とにかく、大変化の時です。すごい時代に生きているなあ、と思う。

 

正直、わくわくしています。

 

 

 

ただし、その変化を素晴らしいものにしていくためには、お寺側(お寺、仏教に限らず……まあ、なんというか、「知恵」を持っている側、ということです)の「手」と、一般側の「手」とが、うまいこと繋がれなくてはならない、と思うのです。与えるものと、受けとるものとの連携体制が、ばっちり築かれていないといけない。

 

救いを求める「手」と、救いを差し伸べる「手」とが、それぞれに、てんでばらばら、あさっての方向に伸ばされていたとしたら、せっかくのこの流れも台無しになってしまう。というか、そもそもなにもはじまっていかない。

 

「自己満足」で終わってしまっては意味がないのです。

 

 

 

そのリスクを回避し、双方向の流れをうまいこと誘導して、ちょうど真ん中の地点で「手」と「手」とを結びあわせ、うつくしく統合していくのも、また、いまという時代の役割なのだと思います。

 

つまり、仏教の場合で言えば、「そもそもなんのための仏教なのか?」というところを、双方に、意識化、明文化させる必要がある、ということです。

 

 

 

 

 

……えーと、さんざん偉そうなこと書いてしまいましたが(どうしよう!)、まだまだ本論には届いていません!(ががががーん!)

 

でも、長くなったので、いったんここで切ります。ごめんなさい。

 

つづきはまた明日にしますね。