「自灯明」と「法灯明」

2014年11月19日

昨日、おとといと、これからのお寺のかたちについて生意気にも自分の考えを書いてきました。

 

そこでキーワードとして上がったのが「自灯明」という言葉。「法灯明」とセットの言葉です。

 

【自灯明法灯明】

[仏]よく整えられた自らを拠りどころとし、正しい教えを拠りどころとすること。涅槃経によれば、釈迦入滅時の最後の教え。

(広辞苑より)

 

よく、「サイのツノのように、ただひとり歩め」という、これもお釈迦さまの言葉と一緒に用いられますね。

 

 

 

でも、おとといの記事でもちらっと書きましたが、「自灯明」のいう「自分」は、決して、自分勝手、の自分ではないのです。

 

この「自分」は、自分勝手な自分が死んだときに、はじめて姿を現す、たったひとつの、本当の「自分」です。

 

いや、「死んだとき」とかいうと言葉が強いか。消えたとき、というか。なりをひそめたとき、というか。

 

 

 

分離された、個別の意識を持つ自分、私でいえば「小出遥子」という個別の人格を持つ自分がなりをひそめたとき、そこには果てしなく巨大な「自分」がいるのです。

 

 

 

「自分なんていなかった!」

 

という驚きは、また同時に、

 

「ぜんぶが“自分”だった!」

 

という驚きをもたらします。

 

その驚きは圧倒的です。それこそ、いままでの価値観が180度転換してしまうほどのインパクトを持ちます。

 

 

 

昨日一昨日の記事で、私がさんざん繰り返した、「自灯明力」を持つ人々というのは、つまり、すべてが「自分」なのだ、という意識を持って、ひとりひとりの人生を歩んでいく人々、ということです。

 

「サイのツノのように、ただひとり歩め」などと聞くと、「なんて孤独な……」なんていう風に思ってしまいがちですが、違うんです。この「ひとり」は、そのまま「すべて」をあらわす言葉です。すべてが自分なのです。だからそこに寂しさやむなしさなんて存在しない。というか存在できない。

 

 

 

でも、いくら「自灯明力」を身につけた人々だって、やっぱり人間です。どうしたって「自我」というもの(つまり「自分勝手」な「自分」)から完全にフリーになることは難しい。道に迷ったり、ときには大きな勘違いを働くことだってあるでしょう。

 

だからこそ、「自灯明」は「法灯明」とセットなのだと思います。「自灯明力」を発揮してこの世を生きていくためには、「正しい教え」に触れていることが必要だということです。

 

そして、これからの時代、「法」を持つ場所として、お寺が大きな役割を果たしていくのだと思います。

 

 

 

なんども繰り返しますが、未来のお寺は「仏教徒」だけのものではなくなっていくと思います。自らをともしびとして生きる(もしくは生きようとする)人たちであれば、誰だってそこを「ベースキャンプ」として利用できるようになっていくのです。「なっていくのです」って、いや、これ、あくまで、私の希望的観測ではあるのですが……でも、的外れではないはず。

 

そして、そこにはたくさんの「仲間」がいます。人と人は、それぞれが自分の足で歩むようになって、はじめて「仲間」になれるのだと思います。

 

同じ「法」をともしびとする仲間との出逢いが自らを照らしだし、照らし出された自らをともしびとして、再び、サイのツノのように、ただひとり歩んでいく力を得ていく……そんな連関が生まれていくのではないでしょうか。

 

宗教、宗派の垣根は、これからどんどん取り払われていくと思います。でも、普遍的な「仏法」はぜったいに残るでしょう。というか、すべての基礎なのだから、消えようがない。仏教がこの世から消え去ることはないでしょう。それは人々にとって必要なものだからです。「自灯明」と「法灯明」がセットであるゆえんです。

 

でも、人々がそれに縛られることはもはやないでしょう。むしろ、それをうまく「利用できる」人々こそが、あたらしい時代を作っていくのだと思います。

 

 

 

 

 

……結局また未来のお寺の話になってしまいました。

 

ぜんぶ、私の勝手な想像です。でも、実現するといいな。きっと、思っているよりは難しくないと思う。変化はすでに始まっています。

 

私もできることをやっていきます。(再び宣言!)

 

だって未来には光を見ていたいから。