「悟りハイ」と「悟後の修行」

2014年11月20日

「なんだ、な~んにもなかったのか!」

「自分さえ、いなかったのか!」

「な~んにもないからこそ、ぜんぶが“自分”だったのか!」

「あれも、これも、それも、彼も、彼女も、あの人も、この人も……ぜんぶ、ぜんぶ、ぜ~んぶ、“自分”だったのか!」

 

 

 

私がこれらの事実を、完璧に、完全に、疑いようもないものとして知ったのは、いまから1年半ぐらい前のことでした。

 

そして、どうやら、この体験が、「気づき」やら「目覚め」やら「さとり」やらという言葉で表されるらしい……ということを理解したのも、その頃でした。

 

びっくりしました。

 

と同時に、この私にも知ることができたのだから、きっと、この境地は、誰にでも、本当に誰にでも、そこには一切の差別なく、平等に訪れうるものなのだろう、と確信しました。

 

 

 

私は、確かにあのとき、なにか「大いなるもの」と完全にとけあって、「大いなるもの」そのものとして存在している“自分”というものを感じていました。

 

この“自分”は、個別の意識をもった“小出遥子”という存在をさす言葉ではありません。

 

そのとき“小出遥子”は死んでいました。完全に、消えていた。

 

私はそのとき、「なんにもない」、それゆえに「すべて」である“自分”として、かつて味わったことのない、圧倒的な安心感の中にいました。

 

心配することなんか、なにもないのだと知りました。

 

 

 

でも。一回「気づき」を体験したからと言って、「はい、ゴール! おめでとう! おつかれさま!」というわけにはいかないのが、この世のかなしく、そして面白いところでもあって。

 

「気づき」があってから、確かに私、数日間は「悟りハイ」みたいな状態になりました。わけもわからずとにかくしあわせで、からだの底から歓喜が尽きることなく湧き上がってくるのを感じていました。見るもの、聴くもの、触れるもの、嗅ぐもの、味わうもの、感じるもの、すべてが新鮮で、ぴかぴかと光っていて……世界は私を祝福していたし、私も世界を祝福していました。誰に対してもにこにこと笑顔でやさしくできたし、人もそんな私にとびきりやさしくしてくれました。私という存在の裾野が、どこまでもどこまでも広がっていくのを感じていました。天国やら極楽やらは、この地にあるのだと本気で思いました。そこには「感謝」しかありませんでした。ありがたくてありがたくて、いつだって涙が出てきそうでした。

 

でも……それは長くは続きませんでした。

 

 

 

私は、気がついたらまた元の“小出遥子”としての自分を生きていて、いらいらしたり、めそめそしたり、その気分を人のせいにして当り散らしてみたり、頭が痛い、腹が痛いと甘えてみたり、暴れてみたり……。

 

正直、がっかりしました。「もとの木阿弥」という言葉を、これほど噛みしめたことがあったでしょうか……というぐらい、本当に本当にがっかりしました。

 

でも、私は、与えられた肉体をもって、自分に与えられた人生を、ふたたび歩んでいくことしかできなかった。

 

 

 

最初は、とぼとぼと、足をひきずるようにして歩いていました。「極楽」を味わったあとだったので、この“小出遥子”の現実が、いままで以上に重苦しいものとして感じられるようになってしまっていたのでした。私は「気づき」を取り逃したのだと思いました。せっかくのチャンスをふいにしてしまった自分に対する、ふがいなさ、情けなさ、悔しさでいっぱいでした。

 

 

 

でも、そんなあるとき、「悟後の修行」という言葉を知りました。禅の言葉です。「いま」に気づいている自分でいるための、不断の修行のことです。

 

「修行」という言葉の響きに、ガツン、と頭を殴られたような気がしました。と、同時に、再び目が見開かされたような気がしました。

 

 

 

ははは、なんだ。気づいて、それで終わりじゃなかったんだ。私、甘えてたな。

 

 

 

なんだか、笑いがこみ上げてきました。いいね、上等だ。修行、やってやろうじゃないの! そんなことを思いながら、私はずっと笑っていました。

 

 

 

生きることは、修行なんだ。

 

 

 

そのことが、ストン、と胸に落ちてきました。

 

久しぶりに、深い呼吸ができたと思いました。

 

第二の人生が、はじまった瞬間でした。

 

 

 

 

 

いや、第二の人生とか言ったら大げさですね。実際、「気づき」前の私と、「気づき」後の私を並べたとしても、そこに著しい変化は認められないでしょう。

 

でも、確かに、私、視点が変わってしまいました。「死」を基準とした視点が、修行のうちに、少しずつではあるけれど、確実に身につきつつあるのです。

 

……とかいうとものすごく暗い感じがしますが、むしろ逆です。

 

自分を死んだものとして全体を眺めてみれば……世界はいつだって生きるよろこびで満ちています。

 

なにはなくとも、しあわせなのだ。この世は、びっくりするほどうつくしい。

 

そのことに、理屈じゃなく気づくことができます。気づいたときには、ごくごく自然に涙が出てきます。

 

私は、一度「死んで」、ようやく「生きる」よろこびを手に入れたような気がしています。

 

 

 

私もまだまだ修行がぜんぜん足りていません。狭くて苦しい“小出遥子”の視点から抜け出せなくなることだってしばしばです。

 

でも、基本的には「楽」です。楽に、なりました。生きることが。

 

「悟後の修行」は、楽しいです。

 

それはいつだって、生きるよろこびとセットになっているからです。

 

 

 

 

 

「体験」自体に意味があるとは思いません。そこにこだわることの愚かしさも知りました。

 

でも、「体験」は絶対的な「気づき」をもたらしてくれまます。

 

 

 

「いま」の意味を知り、そして「生きて」欲しい。「生きる」よろこびを味わって欲しい。あなたに。

 

伝えよう、と思うことすら傲慢な気もするのですが、それでも私は伝えていきたいです。

 

 

 

だって、私はあなたで、あなたは私だから。

 

 

 

これからも毎日こういうことを書き続けていきます。

 

よろしくお願いいたします。