今、いのちがあなたを生きている

2014年11月22日

先日、京都駅前の東本願寺の壁に、「今、いのちがあなたを生きている」という言葉を見つけた。いい言葉だな、と思った。

 

 

 

これがもし「あなたがいのちを生きている」だったとしたら、当然でしょ、で終わっていたと思う。でも、違った。「生きている」の主語は、「あなた」ではなく、「いのち」だった。

 

 

 

ものすごく野暮なこととは知りつつも、話をわかりやすくするために(わかりやすくできるのか!?)、私なりに言葉をおぎなうと、

 

「今、(ひとつの)いのちが(無数の)あなたを生きている」

 

ということになるのだと思う。

 

 

 

「いのち」は、本当は、たったひとつだ。それは目に見えるものではない。

 

でも、「あなた」は、肉体を持って生きる人間の数だけいる。

 

 

 

私の「いのち」と、あなたの「いのち」、彼女の「いのち」と、彼の「いのち」。

 

それらはまったく同じ「いのち」。

 

その、たったひとつを、私が、あなたが、彼女が、彼が、別々の人格が、それぞれに肉体を持って、「生きている」。

 

 

 

目には見えない、たったひとつの「いのち」=「空」。

 

肉体を持った、無数の「あなた」=「色」。

 

般若心経の「色即是空・空即是色」って、これのことなんじゃないかなあ。

 

(ちなみに東本願寺は浄土真宗なので、般若心経は唱えないようですが……。)

 

「空」も「色」も、まったく同時に存在しているのね。

 

 

 

この「同時」っていうのが、この世界をややこしい場所にして、そしてまた、楽しい場所にもしているような気がする。

 

どちらかを嫌って否定することは、まったく不自然だし、そもそもできないようになっているのだと思う。

 

 

 

いのちがあなたを生きている。

 

いのちが私を生きている。

 

私とあなたは、同じ「いのち」を生きている。

 

生きとしいけるもの、すべて、同じ「いのち」を生きている。

 

 

 

なんて頼もしいんだろう。

 

「生きて」いける。

 

そんな風に思う。