「一粒の麦もし死なずば」

2014年11月25日

一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。

 

(ヨハネによる福音書 12章24節)

 

 

 

 

 

先日、「私は仏教徒ではありません。それでも私は仏教徒です。」という記事の中で、「機会があれば、キリスト教の言葉も引用していきたいと思います」と宣言しましたので、さっそくやってみました……。

 

 

 

一粒の麦。

 

これは、おそらく、私たちひとりひとりが個別にもつ、「この」人格、「この」意識をさす言葉なのだと思います。私の場合で言えば、「小出遥子」という人格、意識のことですね。

 

個別の肉体を持って生きている私たちにとって、「私」といえば、この、たったひとりの「私」のことであり、それが「常識」です。

 

でも、その「常識」こそが、実はまったくの「非常識」だったとしたら……?

 

あなたが「私」だと思っている、その個別の意識が死んだとき、実は、とてつもなく巨大な「私」が現れてくるのだとしたら……?

 

そして、それが「真実」なのだとしたら……?

 

 

 

私は、この人生において、過去幾度か、完全に「小出遥子」が消えて、そこに、かつて想像したこともなかったほどに、果てしなく大きな、本当の「私」が立ち現れてくるのを目撃しています。

 

いや、厳密に言えば「見る」自分さえ消えているので、この言い方は正しくないのですが……。

 

 

 

一度でも、その「私」を見ることがあったら、こちらこそが本当の「私」なのだと、理屈じゃなくわかることでしょう。

 

その「私」は、文字通り「すべて」です。

 

あれも、それも、これも……すべてが「私」なのです。

 

それは、とてつもなく心強く、頼もしく、そして、ものすごく「楽」なことです。

 

だって、「お任せ」ができるんですよ?

 

ぜんぶが、「そうなるように」動いてくれるんです。

 

この「楽」さは、「一粒の麦」が死なないことには、決して味わえないものです。

 

 

 

でもね、個別の意識は個別の意識で、なかなかしぶといやつなんです。

 

一度死んで、「大いなる私」を発見しても、ゾンビのように何度でも何度でも蘇ってきては、自分自身を狭い檻の中に閉じ込めてしまう。

 

そして私は、再び「一粒の麦」としてのストーリーの中で、苦しんで苦しんで苦しんで……

 

あるとき「ぱーん」とはじけて死んで、また「大いなる私」が誕生して……

 

 

 

たぶん、一生繰り返すことになるのだと思います。

 

一回死んで、それで「はい、終わり!」じゃないんですね。

 

でも、それでいいのかもしれません。それがしたくて、生まれてきたようなところってあると思うから。

 

 

 

死んで、生まれて、また死んで、また生まれて……

 

私たちは、毎日、毎時、毎分、毎秒、毎瞬、生まれ変わることができるのだと思います。

 

 

 

「一粒の麦」として生きるのか、それを超えたところで生きるのか。

 

本当は、それすら、「選べる」のだとしたら……?