ほんとうのオリジナリティー

2017年3月11日

おはようございます。小出遥子です。

さきほど、当サイトのDialogueコーナーを更新しました。
今回は、歌手であり、僧侶である二階堂和美さんとの対話です。
まずはそこからの引用を。

小出:今年1月のキネマ倶楽部にもお邪魔して、そこであらためて感じたのですが、二階堂さんのライブって、まさしく、文字通りの「LIVE」なんですよね。生(なま)であり、生(せい)であり、それこそいのちそのもの。二階堂さんのライブを見て、ライブということばの意味が、大げさじゃなく、生まれてはじめてわかったというか、「ストン!」とおなかに落ちたような気がしたんです。

二階堂:ああ、うれしいです。

小出:いのちの躍動を、まるごと、そのまま見せていただいた気がしていて。だって、もう、二階堂さん、最初から最後まで全力で、出し惜しみなんか一切しないで、一曲一曲「これが最後だ!」みたいな感じで歌い続けていらっしゃって……。ほんとうに、ものすごく、感動しました。ありがとうございました。

二階堂:こちらこそありがとうございます。うれしい。でも、自分にとってはそれが普通というか、人前でなにかをするっていうのは、もう、ああいうこと以外にはないと思っていて。あれが私にとってのライブパフォーマンスなんですよね。(中略)不思議なことに、普段、ほかのことにはぜんぜん体力を使えないのに、ステージに立っているときだけは全力を出せるんですよね。全力でステップも踏めれば、歌も歌えてしまう。

小出:動こうと思う前に、身体が勝手に動いてしまう?

二階堂:そう、動いちゃうんですよね。

小出:それこそ、ライブ、生(せい)、いのちの動きなんでしょうね。

二階堂:ねえ。そうなのかもしれないですよね。パフォーマンス中は、自分が自分じゃないような感覚があるんですよ。ライブを終えて、その日の夜中とか、次の日の朝とか、ふっと「ああ、あの人、いったい誰だったんだろうな……」って。ステージが華やかであればあるほど、「誰……?」みたいな(笑)。そんな感じですね、毎回。

小出:二階堂さんのステージを見ていてすごく感じたのが、「歌う人」、「表現する人」の不在なんですよね。「歌っている人」がいなくて「歌」だけがある。「表現している人」がいなくて「表現」だけがある。もちろん、二階堂和美というアーティストの存在感は圧倒的に「パーン!」とあって、それはもう絶対で、唯一無二のものなんだけれど、それにも関わらず、ステージ上には「歌」だけがあって、「表現」だけがあって、個人の気配はどこにもなくて……。びっくりしました。「なんだ、これは!」「こんなのはじめて!」って。ぶわって涙があふれて止まらなくなって。

二階堂:うわあ、すごい。それはうれしいですねえ。でも、そうなれていたら、私としては本望です。そこに自分の理想があるので。浄土真宗で言うところのご本尊のイメージ。阿弥陀如来って、本来は光なんですよね。

小出:かたちは仮のもので、光が本体なんですね。

二階堂:そうそう。もちろん、私が阿弥陀さまだ! とか、そういうことを言っているわけじゃないんですけれど、私はあくまでも仮の対象で、受け手の思いを照らし返すための存在だと思っていて。そういうかたちで、受け手の心に触れていくというか、揺さぶるというか、はたらきかけることができたら、すごくいいな、って。それだけなので。そこに自分のはからいは必要ないんですよね。もちろん、事前にいろいろ考えてやってはいますけれども、いざステージに立ってしまえば、そんなものは飛び越えて、ただ、やるだけ、みたいな。

小出:この間のライブも、もう、ほんとうに、はからいゼロの状態で、むき出しでステージに立っていらっしゃることが伝わってきました。頭で考えながらやっていたら、こういうパフォーマンスにはならないだろうな、って。

二階堂:そうですねえ。そういうやり方しかできないんですよね。そうでないと、ステージに立っていられないんですよ。「自分」というものが意識されてしまうと、逃げ出したくなってしまうので。元々は、私、人前に立つことが苦手なタイプなので。はからいとか、自意識とか、そういうところをぜんぶ取っ払って、むき出しにしておいてしまわないと、もう、とてもあんなことできない。

Temple Web「二階堂和美さんとの対話/いのちの記憶はのこり続ける」より抜粋

もうね、この対話は、とにかく、たくさんの人に届いて欲しいと思っています。
(もちろん、毎回そう思っていますが。)
二階堂さんのおことばひとつひとつが、
まさしく「いのち」のあらわれそのものだと感じます。

今日、3月11日にこの対話記事をお届けすることになったのは、
とくにそこに「はからい」があったわけではないからこそ、
(Temple WebのDialogueコーナーは、
現在のところ、原則的には、毎月第二土曜に更新しているのです)
なんというか、不思議な因縁を感じなくもないです……。

ぜひ、最後までお読みいただけますとさいわいです。

ところで、冒頭に引用した箇所なのですが、
ここ、相当すごいことが語られていると思うんです。

真の意味で「自分」を表現するというのは、
決して「俺が! 俺が!」「私が! 私が!」と
自意識丸出しでやっていくことではなくて。
むしろ、一切の「はからい」が手放されたところに
おのずから立ちあらわれてくるのが
ほんとうの意味でのオリジナリティーというものなのではないかな。

二階堂さんをはじめ、私の大尊敬する方々は、
それをごくごく自然にやっていらっしゃるように思います。
「やろう」と思うまでもなく、すでに「やっている」というか……。

それこそが、仏教の言う「自然(じねん)」の在り方なのかも……。

「いま、いのちが私を生きている」というのは、
そのまま、「いま、仏が私を生きている」と
言い換えることが可能だと、私自身は思っています。

「私」と「仏」とが究極のポイントで合致する生き方。
それこそが、「いのちを生きる」ということばに
恥じない在り方なのかもしれません。

届きますように。

二階堂和美さんとの対話/いのちの記憶はのこり続ける
http://temple-web.net/column/347/

よい一日をお過ごしください◎

 

会場が神谷町光明寺から川崎の髙願寺に変更になりました!
ご友人等お誘い合わせの上、お早目にお申し込みくださいませ。

【3/16(木)】Temple@髙願寺

[DATE]
2017年3月16日(木)
19:00~21:00(受付18:30~)
[PLACE]
髙願寺至心学舎

http://temple-web.net/event/45/