「ゆるす」ことなんか、できるわけがない。

2014年11月27日

昨日、「感謝はするものではなく、生きるもの」といったような内容の記事を更新したが、これ、感謝だけでなく「ゆるし」といったものにも、まったく同じことが言えるのではないだろうか、と、ふと思った。

 

 

 

このブログをはじめて割とすぐの頃、「ゆるしかた」というタイトルの記事を書いた。憎んでいた相手の笑顔を思い浮かべて、「あの人は、もう、しあわせです」「もう、大丈夫です」「しあわせに生きています」と宣言した瞬間、自分自身が「ゆるし」に包まれた、といった内容の記事だった。

 

 

 

相手をゆるすことが、自分を解放する、たったひとつの方法だった。

 

その気づきは、私にとって、かなり大きなものだった。

 

 

 

 

 

でも。

 

 

 

「ゆるし」というのは、果たして、本当に「行為」として成り立つものなのだろうか。

 

「ゆるす」ことなど、人間にできるのだろうか。

 

できると思うことが、傲慢なのではないか。

 

人間にできるのは、ただただ「ゆるし」に包まれる、「ゆるし」を生きることだけなのではないだろうか。

 

 

 

「愛」に関しても同じだと思う。

 

「愛」というのは、果たして、本当に「行為」として成り立つものなのだろうか。

 

「愛する」ことなど、人間にできるのだろうか。

 

人間にできるのは、ただただ「愛」に包まれる、「愛」を生きることだけなのではないだろうか。

 

 

 

「感謝」も「ゆるし」も「愛」も、同じものを違う言葉であらわしているだけ。

 

その「同じもの」とは、この世界のすべてを構成している、たったひとつの「ほんとうのこと」。

 

世界の正体、そのものだ。

 

 

 

そうだとしたら……。

 

人間にできるのは、きっと、自分こそが「それ」であったことに気づき、ただただ「それ」に包まれ、「それ」を生きることだけ。

 

 

 

「感謝」そのものとして生きる――

 

「ゆるし」そのものとして生きる――

 

「愛」そのものとして生きる――

 

 

 

人間には、それしかできないのではないだろうか。

 

 

 

でも。

 

それさえできれば、いいのではないだろうか。

 

 

 

ただただ、それがしたくて、それをしたくて、それだけをしたくて……

 

私たちは、生きているのではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

なんとなく、そんなことを思いました。