大丈夫ということ。

2014年11月29日

最近しみじみと思うのは、「私、本当に“大丈夫”になったなあ」ということ。

 

いや、「大丈夫」じゃないときだってあるのだが、でも、基本的には「大丈夫」。なにかが起きても、「最終的には大丈夫」ということを絶対的に知っているから、どっしりと落ち着いて「大丈夫」でいられる、というか……。

 

 

 

数年前の私は、本当に、ぜんぜん「大丈夫」じゃなかった。なにをしていても不安で、自信なんかまったくなくて、頭ばかりで物事を考えて、おなかに力が入っていなくて、呼吸は浅くて、姿勢も悪くて、地に足をつけることが、もうぜんぜんできていなかった。いつだってなんらかの体調不良に悩まされていたし(とくに婦人科系の不調がひどかった)、週の半分はうまく眠ることができなかった。人と接するときには無意識のうちに仮面をかぶっていた。「人に良く思われるであろう自分」「こうあるべき自分」を必死で演じて生きていた。自分の中に軸というものがなかった。それがふつうなのだと思っていた。「みんな」もそうやって生きているのだから、自分もそうしなきゃいけないのだと思い込んでいた。びくびく、ぐにゃぐにゃ、よわよわ……。そんな風にして生きていた。いや、いま思えば「生きて」などいなかった。ぜんぜん、「生きる」ことができていなかった。

 

 

 

……そんな悲惨な状態から、どうやって「大丈夫」になっていったのか。

 

なにかこう、頑丈な鋼のようなもので自分というものをガンガンにコーティングしていったのか、というとぜんぜん違って。むしろ真逆で。

 

私が「大丈夫」になるプロセスは、そのまま、自分を丸裸にしていくプロセスだったのだ。

 

 

 

「こうしなきゃ」とか「みんなもこうしているから」とか「これをしておけばとりあえず安心だ」とか……自分が生きていく上で無意識のうちにどんどんどんどん身につけて、最終的にはその重みでまったく動けなくなってしまうほどに何十枚、何百枚と重ねてしまった「思い込み」のコートを、私は、一枚、また一枚……と脱ぎ捨てていったのだ。

 

脱ぐことには勇気が必要だった。一枚一枚脱いでいくたびに「寒っ!」と震え上がった。でも、それ以上に、肌に触れる新鮮な空気が気持ち良いような気がした。その感覚だけを信じて、一枚、また一枚、と、震える手でコートを脱ぎ捨てていった。

 

そうしていくうちに、少しずつ、呼吸がしやすくなっていった。背筋も伸びていった。身軽になって、身体も動くようになった。それにしたがって、心も正常に動くようになっていった。おなかの中心に、なにかぽかぽかした塊のようなものを感じられるようになっていった。思っていることと、言っていることと、していることとが、少しずつ統合されるようになっていった。そうして、少しずつ「生きる」ことができるようになっていった。なににも代えがたいよろこびが、そこにはあった。

 

 

 

「丸裸でも、生きていけるのだ」

「丸裸だからこそ、“生きて”いけるのだ」

 

 

 

その気づきは、私のいままでの人生の中で、もっとも大きなギフトだった。

 

 

 

「知識」や「常識」など外側の事物で自分の周りに壁を作り上げていくのではなく、それらを取り払ったところにあらわれる丸裸の自分こそを、いまの私は、もっとも頼もしく、心強く思える。

 

そうしたら、生きることが「楽」になった。

 

そして、同時に、楽しくなった。

 

 

 

外側の力が自分を「大丈夫」にしてくれるわけではない。なにもなくても、なにをしなくても、自分という存在は、もうそれだけで絶対的に「大丈夫」なのだと、このままの自分で十分に生きていけるのだと、このままの自分だからこそ「生きて」いけるのだと……そう気づいた瞬間、人はもっとも「大丈夫」になるのだと思う。

 

 

 

私はもう、「大丈夫」です。

 

あなたも、「大丈夫」です。