あんたが主役

2014年12月1日

どんなときも心のど真ん中に置いておかなくてはならないのは、

 

「自分の人生の主役は、ほかでもない、自分自身だ」

 

ということ。

 

 

 

外側のものはぜんぶ脇役……というか、主役である自分を助けてくれるもの。

 

あくまで主役は自分自身。軸はいつだってそこになくっちゃいけない。

 

外側のなにかに、人生の主役を明け渡してはいけないのだ。

 

 

 

そこをおさえた上でのことなら、どんなものを自分の生活に取り入れても「大丈夫」だし、他人の選択にあれこれ口を出す必要もない。

 

でも、そもそもその基礎がガタガタになってしまっている人のなんと多いことか。

 

 

 

たとえば、日本人の中には、まだまだ「宗教アレルギー」といったような症状が、根強く残っていると思う。

 

「宗教」という単語を聞くだけで、びくっとする感じ。

 

いくら「心の時代」と呼ばれる現代に生きていたって、そこから完全にフリーになっている人なんて、ごくごく少数なんじゃないだろうか。

 

でも、はっきり言って、「宗教」自体に罪はない。

 

絶対的に「良い」ものでもないし、絶対的に「悪い」ものでもない。

 

宗教に限らず、絶対的に「良い」ものだって、絶対的に「悪い」ものだって、そもそも、この世には「絶対に」存在しないはずで。

 

そこに変な意味を与えてしまうのは、いつだって個人の勝手な心の方だ。

 

 

 

「宗教」=「いかがわしいもの」というイメージは、たぶん、自分の主役の座を、完全に宗教の方……というか「外側のなにか」に明け渡してしまった人々の様子を見て、少しずつ形作られてしまったものなのだろうな、と思う。

 

自分の頭で考え、自分のハラに訊き、自分の足で立って、自分の人生を力強く進んでいく……個人個人がそうやって生きていく上での「助け」となるための宗教なのに(というか、自分の外側のものは、本来すべてそのためにあるものなのだと思うのだが。)いつの間にやらそこを完全に履き違えて、「外側のなにか」こそを絶対的なものとして据えてしまって、自分の頭で考え、自分のハラに訊き、自分の足で立って、自分の人生を力強く進んでいくことを放棄してしまう人々が、いままで、あまりに多かったのだと思う。そういう人たちが、数々の「まずいこと」を起こしてきてしまったのだと思う。

 

 

 

不安定な時代に、なにか心のよりどころとなるようなものを求めるのは当然だし、それはまったく悪いことではない。

 

でも、最終的に頼れるのは「自分」だけなのだ、軸なんてものは「自分」の中にしかないのだ、というところにいつかは辿り着かないと、苦しみは増すばかりだ。

 

放っておいたら自分のいのちだってとられかねない。これはものすごく切実な問題だ。

 

 

 

それが「自立」を促すものなのか、それとも「依存」を加速させるものなのか――

 

外側のなにかを、自分の「支え」として取り入れるかどうか、判断に迷ったときには、これを基準にすると良いと思う。

 

 

 

最終的にそれなしでも生きていける自分になっていけるのか。それは「自立」の助けになってくれるのか。

 

それなしじゃ生きていくことのできない自分になりそうな恐れのあるものには、なんにせよ、近づくのはやめておくのが賢明だろう。

 

「主役は自分!」と心の底から思えるようになってから出直しておいで、というお話。

 

そうでないと、自分も周りも傷つけてしまうよ。

 

 

 

何度も繰り返すが、あくまで自分の人生の主役は自分。

 

どんなに魅力的な人だって、どんなに魅力的なものだって、どんなに魅力的な教えだって、所詮はすべて外側のものだ。

 

自分以外のなにかを、「自分」そのものにして生きていくことは、不自然以外のなにものでもない。

 

その点を、まずはクールに見定めなきゃいけないのだ。

 

 

 

それは本当に自分の助けになってくれるのか。

 

それを助けとして生きている自分は、しっかりと自分の足で立つことができているか。

 

使うべきものに使われていないか。

 

主役の座を、外側のなにかに明け渡してしまっていないか。

 

 

 

定期的に点検しておく必要がありそうだ。