「不思議」と「不可思議」

2017年3月19日

おはようございます。小出遥子です。

昨日、ツイッターにこんな投稿をしたら、割と反応がありました。

「不思議」と、「不可思議」は、似ているようでいて、絶対的に違う。
私は、「不可思議」の話がしたいんだ。

辞書的には、「不思議」は「不可思議」の略、ということで
同じものとして扱っているようですが、
みなさんも、私と同様、この微妙な違いを感じ取ってくださったのか、
と、うれしく思いました。

以下は、あくまで私のイメージですが、

「不思議」というのは、
いまのところ「わからない」けれど、いつかは「わかる」に転じる、
その可能性を残したことばだと思うんです。

これに対して、「不可思議」というのは、
「思議する」こと自体が「不可」ということなので、
未来永劫「わからない」が続く、というイメージのことばです。

これ、どちらが良いとか悪いとかじゃないんですが、
ただ、宗教的な感覚の真ん中にあるものは、
絶対的に、後者の方だと思うんですね。

すべての宗教は「不可思議」からはじまっているし、だからこそ、
解決不可能な「わからない」と仲良くしていく……
というか、
「わからない」をそのまま大切にしていく道を説くのが、
本来的な宗教の役割なんじゃないかな、って。

私たちの身の周りには、無数の「わからない」が溢れています。
もっとはっきり言ってしまえば、私は、「わかる」と思うことすら、
絶対的な「わからない」の中で起きていると考えています。
つまり、「わかる」は、まぼろしだということです。

仏教では、すべての物事は無量無数の因縁によって在り得ている、
という「縁起」の思想が説かれます。

ここで説かれていることは、もちろん、事実そのものだと思います。

でも、
「なるほど! すべての物事は無量無数の因縁によって在り得ているんだな!」
と、肚の底から納得した(=わかった)ところで、
「じゃあ、その納得はどのようにして起こったんですか?」
「どんな因縁によって、あなたにその理解が訪れたのですか?」
「その理解に至るまでの縁を、最初から最後まで説明できますか?」
みたいな風に問われたら(こんな意地悪言う人いないと思うけど。笑)
たちまち「わからない」の世界に逆戻りしてしまうんですよね……。

縁って、どこまで行っても辿り切ることができないんですよ。
もう、ほんとうに、どこまで行っても。

だからこそ、「無量無数」の因縁によって……と説明するしかないんですよね。
(「無量」というのは、はかることができない、という意味です。)

なにがどうして、いま、すべてがこうなっているのか、
私たちは、ぜったいに「わからない」んです。
ほんとうのほんとうに「わからない」んです。

にもかかわらず、すべては、完全、完璧にととのっていて、
完全、完璧にあらわれ出ていて……。

この「不可思議さ」に、私は、打たれてしまうのです。
そして、「すごいなあ……」とポカンとしたその瞬間、
となえようと思う間もなく、口をついて出てくるのが

「南無阿弥陀仏」

なんです。

阿弥陀如来は、
不可思議光如来、無量光如来、無量寿如来の別名を持っています。
いずれも「わからない」がベースにあります。

でも、言うまでもなく、この「わからなさ」は不快なものじゃない。
なぜなら「不可思議」だから。「思議」自体が「不可」だから。
「わかろう」とする努力なんか、絶対に及ばないことが
最初からわかっているから。

だからこそ、いつだって清々しく、驚きと畏敬を込めて、

「南無阿弥陀仏」

をとなえられるのだと思う。

全面降伏……。

「わからない」の海は、想像以上にやさしいです。

よい一日をお過ごしください◎

 

 

【4/22(土)】Temple@髙願寺

[DATE]
2017年4月22日(土)
13:30~15:30(受付13:00~)
[PLACE]
髙願寺至心学舎

「二階堂和美さんとの対話/いのちの記憶はのこり続ける」
という記事をベースとした、いのちの対話の集いです。
ふるってご参加くださいませ!