恋わずらい

2014年12月2日

最近自分が変だ。

 

「なにをいまさら。アンタ、前から変だったよ」と言われれば、す、すみません……と謝るしかないのだが、とにかく、ものすごく変なのだ、自分が。

 

 

 

これね、たぶん、恋わずらい。

 

私は、いま、絶賛恋愛中なのだ。

 

恋愛のお相手は、この世界、すべてだ。

 

もっと正確に言えば、この世界のすべてと一体となった、自分だ。

 

 

 

とくになにかをしているわけでなくても、ふつうに街を歩いていたり、お茶していたり、あるいは誰かとメールをやりとりしていたり……そんな日常のありふれた風景の中に、「それ」は突然やってくる。

 

胸が高鳴って、少しだけ息苦しくなって、からだの中心がぽかぽかとあたたかくなって、その感覚がゆっくりと全身に広がっていって、なんだか泣きたくなって……そして、突如として、「世界」と「自分」との境目が、消えてなくなる。

 

「愛しています」という言葉すらとけてなくなって、というかその言葉と自分とがまったくもってひとつにとけあって、どこまでもどこまでもどこまでも……果てしなく広がっていく。

 

「愛する」主体としての私、対象としての世界との区別が、「愛」そのものの中に消えていく。

 

すべてが、たったひとつの、「愛」そのものとして「ある」ことを知る。

 

涙が出てくる。

 

涙を流すことしかできなくなる。

 

 

 

「南無阿弥陀仏」は、たぶん、「愛しています」と、同義。

 

阿弥陀如来の別名は無量光仏、または、無量寿仏。

 

無限の光に、無限のいのちに、自分の存在を、世界もろともすっぽりと包まれたとき……

 

ただただ光として、いのちとして「ある」、びっくりするほど大きな自分を感じたとき……

 

人は、「愛しています」の意味で、「南無阿弥陀仏」を唱えるのだと思う。

 

それしかできなくなるのだと思う。

 

 

 

対象を特定した「好きです」や「愛しています」は、言った瞬間に、一個の人間としての自分がくっきりと際立ってくるようなところがあるが、この世界全体への「愛しています」は、言葉として放った瞬間に、意味と同時に、自分という存在が、まるごと空間にとけ出していくような……そんな不思議な感覚につつまれる。

 

たったひとつの光として、いのちとして「ある」自分に、「愛しています」が広がっていく。

 

「愛」そのものとして「ある」自分という名のすべてが、愛おしくて愛おしくてたまらなくなる。

 

 

 

「愛おしい」と思っているのは、誰?

 

「愛」そのものとしての、すべてとしての、自分です。

 

 

 

 

 

私はいったいどうしてしまったのだろう。

 

こんなにうつくしい秋の終わりははじめてだ。

 

 

 

 

 

一過性のものかもしれないし……まあ、せいぜい、存分に味わっておこうと思う。

 

 

 

 

 

 

ありがとう。

ありがとう。

愛しています。