主人公であれ。

2014年12月4日

「ありのままを、ありのままに受けいれる」

「ジャッジメントを手放す」

 

 

 

こういうのよく聞くけれど、実際にこういった態度で生きていくことは、はっきり言って、ものすご~く難しいです。いつだって、ほうっておけば、瞬間瞬間に湧き上がってくる自分の感情の波にもまれて、あっという間にぐちゃぐちゃになってしまいます。この難しさは、私も、日々、痛感しています……。

 

でも、確かに、これらの態度は、「楽に生きる」ための、ほとんど唯一の方法であって。

 

だって、こうやって生きることさえできたら、いちいちすべてを自の手で選び取るという作業をしなくても、あるべき場所にごくごく自然に「運ばれていく」のだから。

 

「俺が!」「私が!」と力まなくても、すべてをお任せしているうちに、いつのまにやら、想像もつかなかったようないいところへと辿り着いている……。

 

考えるまでもなく、これってめちゃめちゃ楽チンです!

 

 

 

冒頭の言葉たちは、こんな風に言いかえることもできると思います。

 

「ありのままの自分を、ありのままに受けいれる」

「自分に対するジャッジメントを手放す」

 

結局、ぜんぶ、「自分」なのでしょう。

 

 

 

……って、ちょっとざっくり言い過ぎたので、解説します。

 

この世界全体を、一個の人間のからだと見立ててください。

 

眼球の細胞は眼球の細胞として、心臓の細胞は心臓の細胞として、腸の細胞は腸の細胞として、足の小指の爪の細胞は足の小指の爪の細胞として……。ひとりひとりの人間が、それぞれの場所で、それぞれの働きをして、それでようやく一個の大きな人間として成り立ちます。

 

個々の細胞が、それぞれの持ち場で、自分の役割をしっかりと果たしているからこそ、人間は人間として生きていけるのです。

 

でも、それぞれの細胞は、決して全体を眺めた上で自分のやるべきことを決めているわけではありません。ただ、「そうあるようになっていたから」、一切の「ジャッジメントを手放して」、ただただそれを「受けいれて」……眼球の細胞は眼球の細胞として、心臓の細胞は心臓の細胞として、大腸の細胞は大腸の細胞として、足の小指の爪の細胞は足の小指の爪の細胞として……しっかりと働いているわけです。そこに変な自我はありません。大腸の細胞が「俺は肝臓の細胞として生きたいんじゃ!」なとど言って騒ぐことも、足の小指の爪の細胞が「私は唇の細胞に憧れているのよ!」などと言って暴れることもありません。

 

巨大なひとつの「自分」として生きるために、彼らは、個別の自分を手放して生きているのです。

 

 

 

ひとつの小さな細胞に過ぎない自分を「ありのままに」徹底的に受けいれたとき、そこには、想像もつかないほど巨大な「自分」が立ちあらわれます。

 

その、世界のすべてを自分として認識している「自分」こそが、「本当の自分」です。

 

 

 

「本当の自分」のことを、禅の言葉で「主人公」と呼ぶそうです。

 

すべてのジャッジを手放して、ありのままの、ごくごくありふれた、小さな小さな自分をそのままに生きようとして、はじめて、人は、自分の人生の、本当の「主人公」になれるのだと思います。

 

 

 

自分の小さな頭で考えることは、所詮小さなことに過ぎません。「全体」を見て判断することなど、個々の存在には決してできないことなのです。

 

それならば、「全体」そのものである「主人公」としての「自分」にすべてを預けるつもりで、小さな判断を手放して、ぜんぶを受けいれて、「えいや!」とばかりに、目の前にやってきた流れに乗ってみるのが良いのでしょう。

 

そうしたら、「運ばれて」いきます。

 

どこへ?

 

想像もつかないほどに、いいところへ、です。

 

 

 

 

 

「主人公」として、楽に、楽しく、たくさんのよろこびを受けいれて、生きていきたいですね。