あたらしいはじまりと「南無阿弥陀仏」

2014年12月5日

昨日、私はまたひとつ、あたらしいことをはじめました。

 

たくさんの方々のお力添えあってのスタートでした。

 

 

 

そのあたらしいことは、まったく思いもかけないご縁からはじまりました。

 

前々から「これをやろう」と計画していて、それをついに実行に移した……とかいう話ではなく、もう、本当に、「そうなっていた」、だから「やらせていただいた」という感じで。

 

うまく説明できないけれど……。そこに「小出遥子」個人の意志や感情が入り込む隙間なんか、一切なかったのかもしれないな、なんて、いま、そんな風に思っています。

 

 

 

この「はじまり」によって、私は、自分を手放すことでしか生まれない、巨大な生き物の姿を、ほんのすこし、見ることができた気がしました。

 

その生き物は、きらきらとした光を放っていました。

 

とてもとても、うつくしい光でした。

 

 

 

1か月の準備期間中、私は、ずーっと、「私が! 私が!」の「小出遥子」と戦い続けていた感じでした。

 

「そうなっていた」から「やらせていただく」だけなのに、もう流れはできていて、私はそこに飛び込むだけでいいのに、それは頭ではわかっているのに、どうしたって、いろ~んな場面で、目の前のことをどうにかしてコントロールしたがる、どうしようもなくケチな自分が出てくるわけです。

 

でも、「小出遥子」のちっぽけな脳みそで考えたことなんて、所詮ちっぽけなことでしかなくて。ちっぽけな「小出遥子」のできることなんて、本当に、あまりにもあまりにもちっぽけなことでしかなくて……。

 

 

 

私、今回、そのちっぽけな「小出遥子」が暴れまわろうとするたびに、実は、超意識的に、

 

「南無阿弥陀仏」

 

ってとなえてました。笑

 

 

 

繰り返し繰りかえし、「小出遥子」が大人しくなるまで、何回も何回も。

 

この1か月で、何回その言葉をとなえたか、もう、本人すら、カウントすらできないほどです。

 

 

 

「お任せします」

 

「思召すままに」

 

「南無阿弥陀仏」

 

「南無阿弥陀仏」

 

「南無阿弥陀仏」

 

 

 

正直、青白い顔をして、唇を震わせながら、涙目でとなえるようなこともありました。

 

真っ赤な顔をして、いらいらしながら、鼻息荒くとなえるようなことだってありました。

 

でも、「南無阿弥陀仏」と、その短い言葉をとなえるたびに、巨大な生き物の放つ光が、ほんの少し、私の胸にも宿るような気がして……。

 

その光に励まされて、少しずつ、少しずつ、「まあいいや」「大丈夫でしょう」「もう、ぜんぶ、お任せします!」という態度を選べるようになっていきました。

 

「小出遥子」が完全にいなくなることはなかったけれど(いまでもピンピンに御健在です、小出さん……)、それでも、「小出遥子」が大人しくなってはじめて姿をあらわす巨大な生き物、そちらこそを、自分の「本体」として生きる訓練は積めたんじゃないかな、なんて思います。

 

いや、ほんと、まだまだなんですけどね……。「小出遥子」はしぶといやつですから。

 

引き続きの「南無阿弥陀仏」、ぜったいに必要です。笑

 

 

 

昨日はじめた「あたらしいこと」は、ありがたいことに、これからも継続してやらせていただけることになりました。

 

「ほんとうのこと」をみんなで語り合う場をつくろうとしています。(ざっくり。)

 

詳細をお伝えできる段階になったら、このブログでも告知させていただきますね。

 

 

 

ああ、なんかもう、胸がいっぱい。「ありがとう」しかないです。

 

ありがとうございました。

 

これからも「南無阿弥陀仏」をとなえつつ、巨大な生き物の一部として、与えられた役割を果たしていきたいな、と思っています。

 

どうぞよろしくお願いいたします。

 

合掌。