まかせきられている

2017年3月24日

おはようございます。小出遥子です。

昨日、ツイッターにこんな投稿をしました。

計画にひとつストップがかかっても、
「時期じゃなかったのね~」とふんわり受け流して、
やるべきことを淡々とやっていれば、
また向こうからあたらしい計画が立ち上がってくる。
流れにおまかせしていれば、ほんとうに、ぜんぶ、大丈夫なんだなあ。

でも、投稿をした直後に「うーん……?」と首をひねって、
数秒後には、こんなことを、再度投稿していました。

「おまかせ」も、「おまかせしよう」と力むんじゃなくて、
すでにすべてが「まかせきられている」ことに、
ただ、ふわっと乗っかるというか……。

あはは! しつこい!(笑) くどい!(笑)
でも、私としては、どうしても正確に言いたいところだったんですね。

よく、「南無阿弥陀仏」は
「阿弥陀さまにおまかせします」という意味なんですよ~
みたいな解説を見かけますし、
私も、そんな風に言ったり書いたりすることがあります。

でも、「おまかせします」って、合ってはいるけれど、
最後の部分で微妙に実感と合っていないんですよね……。
やっぱり、どこか、力みを感じてしまうというか……。

「まかせよう!」と思った時点で、
「まかせる」という行為をしてしまっているのだけれど、
ここで言っているのは、一切のはからいが無効になる地点での「おまかせ」なので……。

ややこしや~。

いや、あたまで考えるから「ややこしや~」となるのであって、
ほんとうはなにもややこしくなんかなくて、すごくシンプルなお話なのですが。

先日も書きましたけれど、「流れ」というのは
人間のはからい、もっと言えば期待のないところにあるものなんですよね。
というか、「流れ」はいつだってここにあるのだけれど、
「俺が! 俺が!」「私が! 私が!」と
自我的なものが出しゃばった瞬間に、それが見えなくなってしまうんですね。

阿弥陀さまをはじめとする「仏」と呼ばれている存在、
(厳密に言えば「存在」じゃないけれど)
あるいは「神」と呼ばれている存在も、これと同じです。

それはいつだっていまここにいる/あるのだけれど
「自分」という感覚がドーンと居座っている限り、
ほんとうの意味で、それと出会うことはなくて……。

……なんてことを言うと、

“すでにすべてが「まかせきられている」ことに、
ただ、ふわっと乗っかる” って、どうやるんですか!?

みたいな質問が来てしまうのですが(そりゃそうだ!笑)
いや、ほんと文字通りに、ふわって……
と答えたところで答えになっていないので……。

ヒントは、「いまここ」です。

というか、それがそのまま回答です。

「いまここ」で、やるべきことを淡々とやっていれば、
妙な期待が入り込む余地はなくなってきます。

すると、自然に、すでにすべては大きな「流れ」の中にあって、
そこではすべてが完全完璧に「まかせきられている」ことを
理屈じゃなく、感じられます。

やっぱり、大事なのは、からだを使った行動ですね。

行動あるところに期待なし。
期待ないところに流れあり。
流れあるところに行動あり。

……おお、なんか格言っぽい!(笑)
参考になるとうれしいです!

今日も、ふわっと乗っかっていこう。

南無阿弥陀仏

よい一日をお過ごしください◎

 

【4/22(土)】Temple@髙願寺

[DATE]
2017年4月22日(土)
13:30~15:30(受付13:00~)
[PLACE]
髙願寺至心学舎

「二階堂和美さんとの対話/いのちの記憶はのこり続ける」
という記事をベースとした、いのちの対話の集いです。
ふるってご参加くださいませ!