「自我」も必要だった

2014年12月6日

最近、私は、「そうあるように動く」……というか、「そうあるように動ける」、あるいは「動かされている」自分というものを、あたらしく発見しました。

 

世界を巨大なパズルと見立てて、目の前に私の形をした空白がある。その空白は完全に私という存在を求めていて、私自身もその空白にはまることを無意識のうちに求めている。

 

私がそこに「ほとんどなにも考えずに」、ただただ「そうあるから」ということだけを理由として、ふわっ、ぴたっ、とはまった瞬間、隣り合ったパズルとパズルとの間にあった溝の一切が消え去り、巨大な一枚絵のような、ひとつらなりの世界が誕生する。巨大ないきもの……正確に言えばそれは生物ですらないのだけれど……として光を放つ、「本当の自分」を発見する……

 

……みたいな。

 

って、ぜんぜんわけわかんないか。あはは。ごめんなさい。でも、たとえるならこんな感じ。

 

こんな感じのことが、最近、大なり小なり起こりやすくなっている気がするのです。

 

 

 

でもね、この「巨大ないきもの」としての「自分」になるためには、まずは自分というものの形を知らなくてはいけなくて。

 

そのためには、まずは、ちっぽけな自分、私で言えば「小出遥子」という個別の人格を持った自分、はっきり言ってしまえば、「自我」とか「小我」とか呼ばれる自分、に、ある程度、頑張ってもらわなきゃいけなかったんだな~と、ふと、思ったのでした。

 

 

 

まあ、あまり良い例ではないけれど、分かりやすいからこれを挙げますが……。

 

えーと、私が本格的に文章というものを書き始めた理由ね。これ、ぶっちゃけると、まあいろいろあるけれど、もうね、第一はこれですよね。

 

「褒めて欲しい」

 

あはは、情けないですね。でもね、ほんと、私、その頃完全に自信を失っていて、いろんなことが人並みにできなくて……でも私の書く文章だけは、手放しで賞賛されるようなこともなかったものの、けなされることもなかったんですね。私は、ただただそこにしがみついた。

 

「褒めて欲しい」「認めて欲しい」

 

ただただそれだけで、書くという行為を続けていました。それはもう、わしわしわしわし書き続けました。完全に、ちっぽけな「小出遥子」から出た行動でした。

 

でもね、「陰極まりて陽となれり」じゃないけど、ちっぽけな自分から出た行動でも、それをわき目もふらずひたすらにやり続ける、ということをしていると……あるとき、ふいに、

 

「あれ、私、これ、自分のためだけにやっているわけじゃないな」

 

みたいなことに気づくんですね。

 

「自分が書きたいものを書く」フェーズから、「自分に(顕在的にも、潜在的にも)求められているものを書く」フェーズに移行していたことに気づく、というか。

 

いつの間にか「そうあるように動く」「動ける」「動かされている」自分を発見することになるんです。

 

わしわしわしわしやっているうちに、「自分」の形が際立ってくる。「あ、これが自分か」というものが見えてくる。あとは、その形を求めている部分にはまるだけ。

 

はまった瞬間に、ちっぽけな自分は消えて、巨大な「本当の自分」が立ちあらわれる……。

 

 

 

……って、やっぱり意味わかんないか。笑 すみません。

 

 

 

でも、とにかく、物事には段階があるのだなあ、と至極当たり前のことを思ったということです。なにごとも一足飛びにはいかない。

 

「私が! 私が!」の「小出遥子」が、「褒めて欲しい」「認めて欲しい」とわめき散らしながら、必死の形相でなにかを書き続ける、というフェーズがなかったとしたら、私は、私自身がどういう形をしていて、どこがそれを求めてくれているのか、気づくこともできなかった、ということです。

 

 

 

なんだ。ぜんぶ、必要だったんじゃないか。

 

 

 

そう思うと、「生きてきた」、この「いままで」のすべてが、急に愛おしくなってきます。

 

 

 

結局、ぜんぶ、「そうなるように」つながっていくんじゃないか。

 

結局、ぜんぶ、「大丈夫」なんじゃないか。

 

 

 

……なんかね、そんな風に思って、ちょっと安心してしまいます。安心していて良いのだな、なんて思います。

 

 

 

 

 

東京は快晴。ひんやりとした朝です。

 

みなさま、どうか、良い一日を。