色即是空空即是色

2017年3月26日

おはようございます。小出遥子です。

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。

鴨長明『方丈記』より

また「いつもの話」ですけれど、
もう、ほんとうに、すべてはここに尽きるような気がするので、
今日も繰り返し、飽きることなく、同じことを書きます。

♪川は流れてどこどこ行くの~

って、あれはほんとうに名曲だと思うのですが、
(喜納昌吉さん、全力でリスペクトです!)
でも、「川の流れはどこへ行く?」と考えるより先に、
「川の流れを“流れ”として存在させているなにかがここにある!」
ことに気づく方が、実は大切なんじゃないかなあ、と思うのです。

「川の流れ」が「川の流れ」としてあるためには、
そこに、まったく同時に、「流れ去らないもの」、
つまり、「川そのもの」がなければいけません。

そこに決して流れ去ることのない「川」があって、
はじめて、「川の流れ」は「川の流れ」になるんです。

ここまではOKですよね。

さて、冒頭に引用した『方丈記』は、以下のように続きます。

世の中にある人とすみかと、またかくの如し。

人の営みも、川の流れのようなものだ、ということです。

ということは、すべての「変わりゆく人の営み」のベースには、
「決して変わらないなにか」がないといけない、ということになります。

その「なにか」って、いったい、なに?

なんなのでしょう?

なんなのでしょうね?

……わからない。

というか、「わかりようがない」んです。
それは、人智を遥かに超えたものだから。

けれど、それは、確実に、ここに「ある」んです。
かたちもなく、色もなく、においもないけれど「ある」んです。
かたちや、色や、においと、まったく同時に、「ある」んです。

川の流れが、川そのものと決して切り離せないように、
それは、ひとところに、完全に同時に、「ともにある」んです。

色即是空空即是色

変わりゆくすべてとともにある、決して変わらないなにか。
変わりゆく自分とともにある、決して変わらないなにか。

その絶対的な「ともにある」に包まれるとき、
人は、永久不変の「安心」に着地できるのでしょう。

そして、その可能性は、すべての存在に、
完全に平等に開かれている。

いまここにおいて、すでに。

よい一日をお過ごしください◎

 

【4/22(土)】Temple@髙願寺

[DATE]
2017年4月22日(土)
13:30~15:30(受付13:00~)
[PLACE]
髙願寺至心学舎

「二階堂和美さんとの対話/いのちの記憶はのこり続ける」
という記事をベースとした、いのちの対話の集いです。
ふるってご参加くださいませ!