「あきらめる」ということ。

2014年12月7日

あきらめることができるなら、一瞬で楽になれるのに、とよく思います。

 

ここで言う「あきらめる」というのは、「明らめる」、つまり、「仕方がないと断念したり、悪い状態を受けいれたりする」(広辞苑より)という解釈ではなく、すべてのものを「明らかに見る」ということ。自分の勝手な主観を差し挟まず、物事を「ありのままに受けいれる」ということです。

 

上記は、一般向けの仏教の解説本(「こうして生きれば楽になる」系の本)などに目を通すと、必ずと言っていいほど書かれています。その界隈では(どんな界隈だ!笑)かなりメジャーな解釈みたいです。

 

 

 

人間という存在が一番「あきらめる」=「明らかに見る」=「ありのままに受けいれる」べき事実は、

 

「結局、自分の足で立ち、自分の足で歩いていくしかないのだな」

 

ということに尽きると思います。

 

 

 

「外側の誰かやなにかに頼るのはもうやめよう。自分の頭で考え、自分の肚に訊き、自分の足で、自分の人生を、力強く歩んで行こう。」

 

そう決意して、実際に一歩踏み出した瞬間にこそ、人生最大の祝福が訪れるのだと思う。

 

「自灯明法灯明」の“明かり”は、そこにしか灯らないのです。

 

 

 

「サイのツノのように、ただひとり歩め」。

 

それは決して「孤独」な生き方なんかではないです。

 

「あきらめ」て、おそるおそるでも一歩足を踏み出したその先には、必ず「仲間」が待っているからです。

 

というか、一歩踏み出したその瞬間には、すでに「仲間」は、自分の隣を並んで歩んでくれています。

 

「仲間」と言っても、ベタベタとした、互いにもたれ合い、寄りかかり合うような、「僕たち、私たち、ず~~~っと仲良しだよね☆ ず~~~っと一緒に生きていこうね☆」みたいな、ばかばかしくてしょうもなくて反吐が出そうな(おっと失礼!)生ぬるくてくだらない(まだ言う!)間柄なんかじゃありません。

 

なぜなら、その「仲間」も、また、自らに光を見い出し、そこのみを「拠りどころ」として生きていく人だからです。

 

ひとりとひとりがそれぞれに自分の人生を自分の足で歩んで、はじめて、人と人とは、本当の「仲間」になれるのだと思います。

 

 

 

楽になりたいのなら、まずはすべてを「あきらめる」ことです。

 

「あきらめる」ことは、そりゃあ怖いし、はじめは痛みだって伴います。

 

でも、最初だけです。

 

そして、そこには必ず「仲間」がいます。

 

 

 

「あきらめる」ことからしか、本当の意味での「生きる」ことははじまっていかないのだと思います。

 

本気でそう思います。

 

本気で。

 

 

 

 

 

東京は今日も快晴です。

 

みなさま、どうか、うつくしい一日を。