「これでいいのか?」「これでいいのだ!」

2017年3月27日

おはようございます。小出遥子です。

煩悩具足の身をもって、すでにさとりをひらくといふこと。
この条、もつてのほかのことにさふらう。

『歎異抄』第十五条より抜粋

上に引用した通り、浄土真宗の開祖・親鸞さんは、

「人間は、この世でさとりを開くことはできない」

と、はっきりおっしゃいました。

この発言は、ずいぶんと長い間、大きな「謎」として
私のこころにひっかかり続けていました。

なんて絶望的なことをおっしゃるんだ!

と悲しくなってしまうのがひとつと、

そういうことをおっしゃるから
「さとり」が遠い世界のことにされてしまうんだ!
ほんとうは誰だって「さとり」を生きられるはずなのに!

と反発する気持ちがひとつと……。

でも、いまは、こういうことをおっしゃった親鸞さんの気持ちが、
とてもよくわかるような気がするのです。

まず、ここで言う「さとり」の定義ですが、
『歎異抄』を落ち着いて読む限り、
「一切の煩悩が起こらない状態」を指すようです。

完全完璧に「煩悩フリー」な存在=さとりを開いた存在=仏

この定義なら、私も、「ああ、そりゃムリですよ……」と納得できます(笑)。

人間、生きている限り、煩悩から完全に自由になることはできません。

なぜなら、ひとりで生きているわけじゃないから。
広大なご縁の網目の中に、どうしようもなく組み込まれて存在しているのだから。

煩悩なんて、「起こそう」と思わなくても、
ご縁の中で、ごくごく勝手に「起こってきちゃう」ものなんです。
自分の意志とは関係なく、どうしようもなく「起こってきちゃう」ものなんです。

波が立たない海はないように、煩悩のない人生なんてありえない。

それでも、煩悩まみれの私たちでも、いや、そんな私たちだからこそ、
阿弥陀さまは、きっちり、漏らさずお救いくださるのだ。
なんとありがたいことであるのか。南無阿弥陀仏…… 
というのが、浄土真宗の論理です。

煩悩を抱えたままでも、いや、抱えているからこそ救われる、というのは、
ほんとうに画期的な教えだと思います。

これを、あえて、阿弥陀という仏を持ち出さずに解釈すると……

私は、肉体を持った人間である限り、
絶対に煩悩から自由になることはできない。
なぜなら、私は、ひとりで生きているわけではないからだ。
広大なご縁の網目の中に生かされているからだ。
この「縁全体」というのは、そのまま、
個別のいのちを超えたところにある、大きないのちだ。
私は、いま、大きないのちを生きている……
いや、大きないのちが私を生きているのだ!
なんてありがたいんだ! これこそ、究極の「救い」じゃないか!

ということになるのだと思います。

「個別のいのちを超えたところにある、大きないのち=阿弥陀」

と考えれば、さっきまでの話とも、すんなりつながりますよね。

人間である限り、迷いから抜け出すことはできません。
「これでいいのか?」と不安になりながら、
人生という道を歩んでいかなくてはいけない。
でも、迷いのベースには、いつだって「これでいいのだ!」という、彼方からの……
広大なご縁全体からの、大きないのちからの、仏からの……
とてつもなくありがたい「呼び声」が響いているのです。

その「呼び声」を一度でも聞くことができたのなら、もう、大丈夫。
安心して、迷いの道を歩んでいくことができるでしょう。

ほんとうは、いつだって大丈夫なんですよ。

よい一日をお過ごしください◎

 

【4/22(土)】Temple@髙願寺

[DATE]
2017年4月22日(土)
13:30~15:30(受付13:00~)
[PLACE]
髙願寺至心学舎

「二階堂和美さんとの対話/いのちの記憶はのこり続ける」
という記事をベースとした、いのちの対話の集いです。
ふるってご参加くださいませ!