すごい人は、謙虚な人。

2014年12月17日

ほんとうにありがたいことに、近年、私は、心の底から「この人、すごい!!!」と思えるような、尊敬できる方々とのご縁を続々といただいています。今年はとくに素晴らしい出会いの大ラッシュでした。

 

ほんとうにすごい人っていうのは、ぜんぜん「偉そう」にしないのですよね。肩の力が抜けていて、呼吸が深くて、声が落ち着いていて、全体的に穏やかで、そしてとにかく「謙虚」そのもの。あ、「謙虚」と「卑屈」はぜんぜん違いますよ! 自信があって、堂々としているのに、雰囲気がやわらかくて、決してこちらを委縮させない。「俺が! 俺が!」「私が! 私が!」という部分がほとんどなくて、一緒にいてとにかく心地いい。

 

逆に言えば、どこか「偉そう」にしている人は、実はぜんぜんすごい人なんかじゃないってことですね。ほんとうにすごい人たちと日常的に接するようになって、私、心の底からそう思いました。

 

いや、すごくない人なんて本当はいないのですけれど、でも、なんだろな、「偉そう」にしている人って、やっぱりどこか「つまっている」し、「にごっている」と思うのですよね。そこが、「謙虚」とは真逆の態度としてあらわれてしまうのではないかなあ、と。

 

 

 

「謙虚」ね……。

 

たぶん、「ほんとうにすごい人」っていうのは、いつだって「大いなるもの」とつながっている人のことなのだろうな、と。つながっているからこそ、「謙虚」でいられるのだろうな、と。昨日も書いたことですが。

 

「大いなるもの」っていうのは、たとえば「自然」とか「宇宙」とか呼ばれるものであるのかもしれないし、「愛」とか「光」とか呼ばれるものであるかもしれないし、「神」とか「仏」とかね、まあ、そういう名前で呼ばれるものなのかもしれないし……呼び方は、まあ、なんでも良いのですが、とにかく、個人を超えたところにある「はかりしれないなにか」のことですね。

 

この「はかりしれないなにか」って、でも、決して自分から離れたところにあるわけではなくて(まさに「はるかにあらず」です)、私たちは、ほんとうは、いつだって、どこにいたって、「そこ」と、「つながる」ことができる。

 

というか、「つながって」生きている状態の方が本当はふつうなのだけれど。

 

いや、もっと言えば「それそのもの」として生きている状態こそが通常であるはずなのだけれど。

 

でも、まあ、たとえば、強固な思い込みであったり、からだとこころに溜まった「毒」であったり、恐怖感や罪悪感であったり……が、「はかりしれないなにか」と自分とをつなぐパイプ的なものの中にぎっしりみっしり詰まってしまうと、もう、完全に切り離されて、ひとりぼっちになってしまったような気がして、ぜんぜん自分自身を信頼できなくなって、つまりは「自信」というものがすっかりなくなって、その結果として、イライラしたり、ツンツンしたり、メソメソしたり、クヨクヨしたり、ビクビクしたり、「自分が! 自分が!」となったり……してしまうのではないかなあ。

 

 

 

ほんとうは、この世にあるものは、すべてつながって、重なって、関連し合って存在していて。なにひとつ、切り離されて存在しているものなどなくて。

 

ほんとうは、「すべて」は「ひとつ」で、「ひとつ」が「すべて」で。

 

そのことを、ほんとうのほんとうに理解して、それこそ「腑に落として」、そうやって「そこ」に「つながって」、「それそのもの」として生きている人たちは、きっと「謙虚」でいざるを得なくなってくるのでしょう。

 

だって、彼らの生きる世界では、「ぜんぶ」は「自分」で、「自分」が「ぜんぶ」なのだから。

 

 

 

「自分が! 自分が!」と主張する自分がとけ切ったところにたちあらわれてくる「自分」こそを、つまり「はかりしれないなにかと一体となった自分」こそを、「ほんとうの自分」として生きることを選んだ人たち。

 

「すごい人」って、なるほど、こういう人のことをいうのか、と。

 

なんかね、そんなことを、ここ最近、強く感じています。

 

 

 

まあ、逆に言えば、誰だって「すごい人」になれる可能性があるよってことですね。いや、「なれる」というか、そういう人として「生きられる」というか。「そこ」と切り離された存在など、ほんとうはどこにもいないのだから。

 

「つながって生きる」。その意思と覚悟さえ持てれば、きっと、誰だって、ね。

 

 

 

 

 

私も、一歩一歩、進んでいきたいな、進んでいけたらいいな、と思っています。