「陽極まれば陰となし、陰極まれば陽となす」

2014年12月22日

蒸したかぼちゃをマッシュして、アーモンドミルクを少量加え、塩こしょうで味を調えたところにレーズンをトッピングするという、なんだかやけにお洒落な食べ物を延々と作り続ける……という夢を見ました。朝起きて「なんでこんな夢を見たんだろう……」と、ぼへ~とした頭で考えて考えて考えて、思い至りました。

 

今日は冬至じゃないですか。

 

それでかぼちゃの夢を見たのね。

 

 

 

冬至……。

 

一年で一番陽の短い日……。

 

暗いわけです……。

 

 

 

でも、逆に言えば、明日からまたどんどんどんどん陽が長くなっていくということで。「陰極まれば陽となす」。希望の象徴の日でもあるというわけですね。

 

まあ、寒さの本番はこれからですが……。

 

 

 

なんでも極まってしまえば、もう、真逆に振れるしかないということで、自然の営みってほんとうにすごいなあ、と思います。放っておいても、バランスを取ってくれるのだものね。頼もしいなあ、と思います。

 

でも、たぶん、人間だってそうですよね。人間だって、ほんとうは自然そのものなのだから。

 

放っておいても、極端に振れるようなことがあったら、「それはまずいよ~」「戻っておいで~」って、ちゃんと「あるべき地点」「ちょうどいい地点」に引き戻してくれるような機能が働く。そうやって、からだもこころも、ちゃんとバランスが取れるようになっている。

 

そのバランシング機能とでも呼ぶべきものが弱まったり失われてしまっている状態というのを、「不健康」と呼ぶのではないかなあ。

 

 

 

「中庸」という言葉があるけれど、これって決して「平均値」のことではないのですよね。100あるうちぴったり50が「中庸」なわけではない。ひとつひとつ、個別の事象ごとに「ちょうどいい地点」っていうのは設定されていて、それは決して客観的な数値としてはかれるものではないのですね。

 

で、その「ちょうどいい地点」っていうのは、それこそ、あっちへ行ったり、こっちへ行ったりしながらでないと、どうもうまいこと探れないようになっているらしい。

 

いや、本当は、「答え」はぜんぶ「ここ」に用意されていて、「ここ」にさえつながれば、一発で分かるようなものなのですが、どうもね、私も含めて、現代に生きる人間っていうのは、根強い自己不信感、恐怖感、罪悪感などに邪魔をされて、なかなかばしっと「正解」に辿り着きづらいようなところがあって……。

 

 

 

だから、まあ、なにを言いたいのかと言うと、最初から「世間的な」、つまり「頭で考えたような」ど真ん中を狙って生きることもないよ、ってことで。

 

間違ってしまうことを、過剰に恐れることもないのかな、って。

 

 

 

 

「俺は最初から50を狙う! 寄り道してる暇なんてねえ!」

 

などと息巻いて、本人の考える「ど真ん中」だけをがしがしがしがしわき目もふらずに歩いてきたAくんよりも、

 

「ど真ん中とかよくわかんねーし、俺はいろいろ寄り道させてもらうわ~。そっちの方が人生楽しそうだし。」

 

とか言いながら、あっち行ったりこっち行ったり、ふらふらふらふら生きてきたBくんの方が、

 

結果として、「中庸」=「本人にとってのちょうどいい地点」に早く辿り着く、ということだって、実はめちゃめちゃよくあることなんじゃないか、ってお話。

 

若い頃やりたい放題やんちゃやってた人ほど、大人になってから孝行息子・孝行娘になったりするのと似ている……のか? 違うか。

 

 

 

頭で考えることなんてたいてい不正解です。

 

その人にとっての「ど真ん中」は、いつだってからだとこころが教えてくれるものなのだと思う。

 

だからこそ、「間違って」も別にいいのですよね。教えてもらえるのだから。

 

 

 

私たちは、もっと大いなるものを信頼して生きてみてもいいのかもしれませんね。

 

 

 

 

 

そんなことを考える2014年の冬至の朝でした。

 

今日は柚子を入手して帰ろう。