すべて決まっているのだとしたら。

2014年12月28日

「流れ」はすでに用意されているのだから、私たち人間は、できるだけ力を抜いて、ゆったりと浮かんで運ばれていけば良いのだ―― といったようなことを一昨日の記事にも書きましたが、それに関連して。

 

最近、私、「ビリヤードの15個の球がそれぞれどういう動きをして、最終的にどこのポケットに入るか、ということは、ブレイクショットの瞬間にすべて決まっている」みたいな話を聞いて、「そうだよね……!」って強く納得したんですね。

 

で、このお話は「この宇宙を大きなビリヤード台と見立てると、この世に存在するすべてのものの動きは、ビッグバンの瞬間に決まっているということになる」などという壮大なものにつながっていき……。

 

「ががががーん!」とショックを受けると同時に、「なるほど、そうかも……!」と、ものすごく腑に落ちるところがあって。

 

すべての事象は、必然に次ぐ必然の上に成り立っているのですね……。

 

自分がなにかを「選択」して「行為」することなんて、本当のところ、一切、ありえないのかもしれない。

 

 

 

だから、たとえば、私はいまこのブログをミルクココアを飲みながら書いていますが、これだって、実は壮大な必然の積み重ねの末の出来事なわけであり。

 

寒くて指先が冷えるから、大好きなしょうが湯でも飲みながらPCに向かおう、ということでキッチンに立つも、買い置きしておいたはずのしょうが湯の素がない。そう言えば、この間風邪を引いた友人に最後の一袋をあげたんだっけ……。それで代替案を探っていたところに、別の友人にもらったりんご緑茶の缶が目に入り、「これを飲もう!」とテンションが上がるも、先日、ガラスのポットを落として割ってしまったことを思い出し、「お茶淹れられないじゃん……」とテンション急降下。仕方なく冷蔵庫を開けると、牛乳とココアの袋があることを発見。ココアの気分ではなかったけれど、牛乳の消費期限も切れそうだしなあ……ということで急遽ミルクココアを作って、飲んで、「おいしいじゃん! 私、本当は、ミルクココアを求めてたんじゃん!」とテンション上がって、るんるん気分でPCのスイッチを入れて、いまに至る……。

 

って、ほんと、何気ない話なんですが、いま私の左斜め前にミルクココアの入ったコップが置かれるまでにも、いろ~んな出来事が起きていることがわかります。

 

まず、季節が冬だったこと。私の指先が冷えていたこと。しょうが湯の素が切れていたこと。友人が少し前に風邪を引いていたこと。りんご緑茶をもらったこと。ガラスポットを割ってしまったこと。ココアの素があったこと。牛乳の消費期限が切れそうだったこと。

 

これらのうち、なにかひとつでも欠けていたら、私が、いま、ミルクココアをおいしくいただきながら、るんるん気分でブログを書く、という出来事は生じなかったわけです。

 

それで、よーく見ていくと、ここに私個人の意思というものは、実際、どこにも存在できていないことが分かります。

 

ぜんぶ「そうなるように」なっていて、私は単にそこにはまりこんで、ただただ目の前の出来事に一喜一憂しているだけ。

 

私「が」選択したことなど、本当はひとつもないみたいです……。

 

 

 

って、上記のたとえが陳腐すぎて分かりづらかったかもしれないけれど、これね、たぶん、この世で起こるすべてのことにそのまま言えることだと思う。

 

偶然は必然だし、すべては「そうなるように」できているのだと思う。

 

 

 

あなたがその会社で働いていることも、その家に住んでいることも、その服を着ていることも、その財布を使っていることも、今日のお昼にパスタを食べようとしていることも……宇宙誕生の瞬間に決まっていたのだとしたら?

 

 

 

「ぜんぶ決まっているなんて夢がない!」と言いたくなるような気もするけれど、でも、私たちには、目の前の出来事を「味わう」自由は与えられています。

 

逆に言えば、人間にできることは、ただただ、それぞれの人生の上で起こるすべてを「味わう」ことだけなのかもしれない。

 

「味わう」ことさえできたら、人生、それでいいような。それで「大成功」なような。

 

そして「味わう」ためには、力が抜けていなければいけないのだと思う。

 

人生、ゆるんだもんがち、という気がしています。

 

ゆるんだ人から、楽しくなっていくのだと思う。

 

 

 

 

 

やっぱり、ゆるんで生きていくに越したことはないな~。

 

まあ、この感慨すらもビックバンの瞬間に決まっていたことなのかもしれませんが……。

 

まあ、いっか。笑