「価値は生命(いのち)に従って付いている」

2015年1月4日

先日、友人、というか、尊敬する方、というか、まあ、「仲間」と私は(勝手に)呼んでいる、そんな関係のひとりの男性と、これからの世界について熱く語っているとき、

 

私の真後ろの席では、20代後半~30代前半ぐらいの男性二人が、ギラッギラの拝金主義的な会話に興じており、

 

「こ、これはいったいなんのメタファーなのかしら……」

 

と思わず考え込んでしまいました。

 

 

 

いや、別に考え込む必要もないのですが、なんというかね……背中で彼らの呼吸を聞いていると、とにかく苦しそうなんですよね。肺の上部だけで息をしているというか。呼吸の間隔も不自然に短くて。

 

お手洗いに行くときに、チラッと彼らのたたずまいを眺めたのですが、案の定、顔の周りの空気が変に緊張している感じで、首から下のからだがまったくもって空虚でした。「気」がぜんぜん巡っていない感じ。

 

声もまったくおなかからのものじゃなくて。妙に甲高くて、無理なテンションがかかっている感じ。もっと言えば、嘘をついている人の声だった。

 

まあ、全体的に、ものすごく「苦しそう……」な感じだったんです。それが、なんだかとても可哀想で。

 

 

 

……ってね、こんなの、ほんと、彼らに言わせれば「大きなお世話だ!」って話だと思うのですが、でもね、もし彼らが、「本気で」お金というものを愛していて、それを儲けることに生きがいを見出しているのだとしたら、ぜったいに「苦しそう……」という印象を周囲に与えるということはないはずなんです。

 

あれね、本当に苦しそうだったんです。

 

私が「そう見たかったから」とかいうレベルを超えて、誰がどう見ても、あの人たちは苦しそうだったと思う。

 

やっぱり、そこになにか「ごまかし」があるから、あんなに苦しそうな感じになっていたんじゃないかな。

 

 

 

そう……すべての元凶は「ごまかし」なのでしょう。

 

自分の「いのち」に対する「ごまかし」ですね。

 

 

 

自分の中に「ひたひたとある」(というのは冒頭の仲間の表現ですが)絶対的に価値ある「いのち」に触れることができていないから、外側のなにかにすがろうとしてしまう。自分の外側に「価値」を見出そうとしてしまう。

 

 

 

「価値は生命(いのち)に従って付いている」とは椎名林檎の「ありあまる富」という曲の歌詞ですが、もう、まさに、それしかなくて。

 

というか、「いのち」こそが唯一の価値で。

 

 

 

「いのち」の外側にある価値なんて、実はぜんぶまやかしです。

 

ごまかしが生むまやかしです。

 

 

 

それにゲーム的に興じるのは楽しいことだけれど、でも、いつかはまやかしだと気づかなければ、ずっとずっと苦しいままになってしまう。

 

 

 

 

 

ほんとうの価値は、「ここ」にしかない。

 

それに気づいて、自分というものに本気で向き合った人から、ほんとうの意味での「人生」をはじめることができるようになるのだと思います。

 

 

 

そして、それは、誰にだってできることなのだと思います。

 

 

 

なんか偉そうになっちゃったけど、本気でそう思います。

 

 

 

 

 

 

 

お正月休みは今日まで、という人も多いのかな。

 

みなさま、どうか良い一日をお過ごしください。