仏そのものとして生きる

2015年1月6日

ナウシカも布袋さんも、たぶん、いつだって瞑想状態で生きていた。つまり自分の中の「愛」=「大いなるもの」とつながって、それそのものとして生きていた。だからこそ、周りの人を感化していくことができたのでしょう。私もそうありたいものです……といったお話を昨日の記事に書きましたが、それに関連して。

 

 

 

私はかなり前から仏像というものにどうしようもなく魅力を感じて、全国各地を旅してまわってきたのですが、「仏像のどこがいいの?」「なににそんなに惹かれるの?」と問われると、どうもうまく答えられずに口ごもってしまっていたのですよね……。

 

でも。最近。その理由を、ようやく言葉にすることができた気がします。

 

 

 

なぜ、仏像というものにこんなに惹かれるのか。とくに如来像や菩薩像に惹かれるのか。

 

それは、像として彫り出された仏さまが、いつだって深い瞑想の中にいらっしゃるからです。

 

仏教語で言えば「禅定(ぜんじょう)」とか「三昧(さんまい)」とかいった状態。

 

その状態でじっととどまっている仏さまを見ていると、私もつられて瞑想状態に近い感じになっていくのです。

 

それが、なんとも言えず心地よいのですね。

 

 

 

人はいつだって目に見えないエネルギーのようなものを交換し合って生きています。

 

イライラしている人のそばにいると、こちらのこころもぴりぴりしてきたり。

泣いている人を見ると、こちらもつられて泣きたくなってしまったり。

にこにこ笑っている人の近くにいると、わけもわからず明るい気分になったり。

 

これって、自分の中に、相手と同じものがあるからこそ起こってくる現象ですよね。

 

相手の怒りに、悲しみに、よろこびに、自分の中にある同質のものが共鳴するからこそ、私たちは、「つられて」、ぴりぴりしたり、めそめそしたり、にこにこしたり……ができるのでしょう。

 

 

 

これと同じで、つねに瞑想状態で生きている人=「愛」や「いのち」や「自然」や「宇宙」……呼び方はなんでもいいけれど、とにかくそういった「大いなるもの」につながって生きている人っていうのは、もう、その存在だけで、周りの人を導いてしまうものなのでしょう。

 

だって、「大いなるもの」は、ひとりひとりに確実に備わっているものだから。

 

ほんとうは、みんながみんな、「大いなるもの」のあらわれとして生きているのだから。

 

こうなってくると、ナウシカや布袋さんみたいにして生きている人は、もはや存在そのものが「仏さま」ですよね。

 

「大いなるもの」を、「自分の中に思い出させる」存在としての、仏さま。

 

 

 

これね。逆に言えば、ほんとうは誰だって「仏さま」になれるっていうことですよね。

 

「ほんとうの自分」を思い出して、つながって、それそのものとして生きるための、正しい努力さえはじめれば。

 

そんな生き方こそを、「仏道」と呼ぶのではないのかな、なんて思っています。

 

 

 

 

 

 

 

ホトケ顔だの地蔵顔だの円空仏に似ているだのいやそれを言うなら木喰仏だろうだのなんだの……とにかくまあそういった類のことを言われまくっている私ですが(最高の褒め言葉と受け取っています!)、仏そのものとして生きるには、まだまだ道のりは通そうです……。

 

だけど、少しずつでも整えていけたらいいな……。

 

 

 

あきらめないもんね!

 

精進します!!!