「かたよるな」と言われても。

2017年5月1日
イラスト:nihhi

おはようございます。小出遥子です。

最近、また、仏教の根本の教えに立ち返って、
自身のあり方と照らし合わせて、
反省したり、うなずいたり、また反省したりしています。

昨日は、とくになにがあったわけでもないのですが、
お釈迦さまの説いた「中道」ということばの意味を、
じっくりと噛みしめる一日でした。

「中道」ということばを使って、お釈迦さまが伝えたかったことは、

「かたよるな」

の五文字に集約されると思うのですが、
「うーん、そうは言われても……」
というのが素直な気持ちだと思います。

人間、誰しも「かたより」を持っていて、
その「かたより」こそが「個性」を生み出し、
「個性」こそが「多様性」となって、
この世界を色とりどりに飾り立ててくれるわけで。

誰もが同じような顔をして、同じような服を着て、
同じようなことを言って、同じような動きをしていたら、
世界はペラペラののっぺらぼうになってしまう。
そんな世界、はっきり言ってつまらなすぎます。

お釈迦さまはそんなつまらない世界を望んだのでしょうか?
そんなわけありません。

お釈迦さまは、確かに、「中道」ということばを使って、
「かたよるな」と伝えました。

でも、その「かたよるな」をもっと噛み砕けば、

「どうしてもかたよってしまう自分に気づいていなさい」

ということになるのだと思うのですよね。

「かたよっている自分」に自覚的であれば、その人は、
結果的に、「かたよっていない自分」であれる。

禅問答みたいですけれど。

「0」から「100」まで数字が並んでいたとき、
そのど真ん中の「50」から外れないように歩くのが「中道」になるのか?
そんなことはありません。

「50」から外れないようにしよう、というその態度こそが、
すでに「かたよっている」のです。

逆に、「0」の位置にいても、
あるいは「100」の位置にいても、
「自分はいまたまたまこの位置にいるけれど、
これが“絶対”ではないことを知っている」
ということにはっきり気づいている人は、
そのまま「かたよっていない人」と呼ぶことができる。

ややこしや~

いや、なにもややこしくなんかないですね。

「中道」はいつだって「気づき」とともにあり、
私たちは、ほんとうはいつだって「気づき」の中にあるのだから。

「かたよっている自分」に気づきながら、
今日も元気にかたよっていこう!(笑)

よい一日をお過ごしください◎

5月28日(日)の15時より、名古屋市中川区の真宗大谷派寺院・瑞因寺さんにて、
対話の集い・Templeを開催させていただくこととなりました。
名古屋でのTemple開催は初! このありがたいご縁に、こころより感謝しています。
お近くの方も、そうでない方も、この機会に、ぜひTempleをご体験ください。
その後、手羽先屋さんで懇親会もあるみたい……?(笑)
懇親会のみのご参加もOKです!
みなさまにお目にかかれるのをたのしみにしております。
どうぞよろしくお願いいたします◎

【5/28(日)】Temple@瑞因寺
http://temple-web.net/event/67/