自由っていったいなんだあああい!?(尾崎風に)

2015年1月10日

「自由」

 

 

 

この言葉を聴くと、どうしたって、尾崎豊のシャウトが聴こえてきてしまうのですが(「微妙に世代じゃねーだろ」という声も聴こえてきそうですが)、

 

昨日はある事情から、ずっとこれについて考えていました。

 

 

 

最近教えていただいたのですが、「自由」というのは元々仏教の言葉なのだそうです。

 

で、その意味としては、決して、尾崎的な、「この支配からの……卒業」=「自由」といった気分のようなものではなくて、

 

「あらゆる依存から解放され、自分自身の足で立つこと」

 

なのだそうです。

 

どこから「解放」されるのかが違うのですね。

 

 

 

一般的な「自由」は、外側の枠組みみたいなものからの「解放」を指し、

 

仏教的な「自由」は、それらにとらわれてしまう「自分自身」からの「解放」を指す。

 

 

 

ってことで大丈夫でしょうか……?(小声)

 

 

 

仏教的な意味での「自由」を生きる。

 

これって、究極の問題解決ですよね。

 

 

 

外側に「不自由」のモトみたいなものを見出している限り、そのうちのひとつから「解放」さたとしても、次から次へと「不自由」は襲い掛かってくる。

 

でも、「不自由」のモトを自分自身に見出すことができれば、そこを正しさえすれば、いつだって、なにに対しても「とらわれる」ということがなく、足取り軽く、鼻歌混じりで(っていうのはもちろん比喩ですが)たのしく生きていける。

 

 

 

「自らをともしびとして生きよ」

 

とは、もう、まさに、「それしかない」というところで放たれた言葉ですね。

 

 

 

外側のなにものにも拠らずに、ただ自らのみを拠りどころとして生きていく――

 

「自由」を生きたいな、と思います。

 

 

 

まあそれがはっきり言ってむずかしいから、「自灯明」は「法灯明」とセットなのでしょうけれど。

 

でも、「むずかしい」っていうのも、たんなる自分の思い込みだったりして。

 

ただ、その思い込みにとらわれているだけだったりして。

 

 

 

ああ、自分自身から解放されたい……。

 

 

 

日々是修行ですな。

 

 

 

 

 

東京の朝は快晴。

 

善き日をお過ごしください。