モノの多さと、自分の「声」

2015年1月13日

先日、ある目的があって、下北沢の某超有名雑貨系本屋さん(笑)に足を踏み入れたのですが、いやー、すごかったですね。若い時分は、私、あのお店が大好きで大好きで、何時間でもいられたものですが、今回は15分程度の滞在でヘロヘロになりました。

 

だって、とにかく、目に飛び込んでくる情報が多すぎるんだもん。

 

おばちゃんついていけませんでした……。

 

あーあ。年とったね、私も……(遠い目)

 

 

 

若い頃は、ああいったキッチュでポップな物質の海から宝物を探すことを生きがいとしていたようなところがありまして、実際部屋にもものが溢れまくっていましたし、人と話すときにも、「○○っていう本に書いてあったんだけど~」とか「××という有名な方がおっしゃっていたんだけどね~」とか、そういった言葉を必ず枕にしてしまうほど、なんというか、外側の何かで自分自身を規定しようとしていたというか、自分の周りに壁を築き上げずにはおられなかったというか……なんかね、そういうところがあったのでしょうね……。しかしまあ、若さっていうのは、多かれ少なかれそういうものなのかもしれないな……。もう戻らないあの頃よ……。などと、ヴィレ●ン(笑)お得意の、あのジブリのキッチュでポップなカバーアルバムが大音量で流れる中で、しみじみと感じ入っていたことです……(合掌)

 

 

 

その反動なのかなんなのか、いま、私の部屋は「禅寺か!」というほど、物がありません。

 

「私の趣味は断捨離です!」と宣言できてしまうぐらい、定期的に自分の持ち物を点検して、「これはお役目終了だな~」と感じられるものに関しては、割と容赦なく手放して、循環させるようにしているのです。

 

今度の引っ越しだって、私の分の荷造りは、恐らく1~2時間で終わってしまうことでしょう……。

 

 

 

自分が変わったから部屋が変わったのか、部屋が変わったから自分が変わったのか、まあ相乗効果なのでしょうけれど、とにかくいまは、

 

「必要なものはそんなに多くない」

 

ということを、ド真ん中にばしっと置いたような生活ができています。

 

 

 

たぶん、身の周りに、手当り次第にいろんなものをためこみ、持ち歩いていた頃の私は、いつだって不安だったのだと思います。

 

不安の原因は、自分自身がナニモノであるのかを掴めていなかったことに由来するでしょう。

 

自分の内側が空虚だから、とにかく外側のものをかき集めて、それでなんとか自分というものを取り繕おうとしていた。

 

外側のなにかを獲得すればするほど、その真ん中にいる自分自身の「声」が聴こえなくなっていった。

 

そもそも自分が「声」を持つ存在だということすら、忘れていたような気もします。

 

 

 

ものが少ないと、単純に、自分の「声」がよく聞こえるようになります。

 

それに集中して、吟味して、外側のものを選ぶということができるようになります。

 

それがいまはものすごく楽なのですね。

 

 

 

外側のものを必死で取り入れるようなことをしなくても、自分はこのままで十分に「持っている」のだな、ということを理屈じゃなく感じながら生きることができる。

 

楽。

 

楽って、いいなあ。

 

 

 

いや、こんなのだって、もしかしたら、私自身が単純に年をとったから言えるようなことなのかもしれないですけれどね。

 

そして、若者特有の不安みたいなものを抱えて生きてきたという過去があるからこそ、いまの心地よさに気づいていられるということもあるのでしょうし。

 

まあ、ぜんぶ、必要なステップだったのでしょう。

 

って私何歳だよ、って話ですが。笑

 

 

 

 

 

昨日は、街で、晴れ着姿の娘さんたちを何人も見かけました。

 

成人の日だったのですね。

 

彼女たちのゴテゴテした装飾過剰な立ち姿は、自信がなさそうで、でもプライドだけはやけに高そうで、変な風に力が入っていて……それでも、とても、可愛かったです。

 

あの子たちが、自分の思う「善き人生」を、自分自身の足で、しっかりと歩んでいくことができるよう、小さくお祈りします。