「こわい」より「したい」を選ぶ。

2015年1月15日

「したい」けど「こわい」ことって、日常の中でたくさんありますよね。

 

好きな人に連絡をしたい、けどこわい。

一人で海外に行ってみたい、けどこわい。

転職したい、けどこわい。

 

などなど……。

 

 

 

すっごくよくわかります。

 

私だってこういった葛藤を抱えること、しょっちゅうです。

 

 

 

それでも。

 

私、割とよく、「行動力がある」とか「勇気がある」とか「覚悟が決まっている」とかいう風に褒めてもらえるんです。

 

(それ以外の部分では、あまり褒めてもらうことがないのですが。あはは!)

 

正確に言えば、ここ数年で、そう褒めてもらえるようになったんです。

 

整えて整えて、そういう風に言われるような自分に持っていったんです。

 

「しない」で抱えるモヤモヤよりも、「とにかくやった」自分に対する清々しいような気分を大事にしたいと思った。

 

だから、常にそういう自分でいられるよう、私は私を整えたんです。

 

いや、いまだって整えている最中です。

 

毎瞬毎瞬が勝負です。

 

 

 

だって、私たち、どうせいつかは死ぬんです。

 

 

 

「終わり」が来ることが避けられないのならば、その時まで、毎瞬毎瞬、自分のこころが弾むような選択をしつづけたい。

 

 

 

人間の死亡率はいまのところ100パーセント。

 

どんな人だって、いつかは死んで「無」に還る。

 

生きていることはそれ自体がまぼろし。

 

「したい」も「こわい」もまぼろしならば、私は「したい」の方を選択しつづけたい。

 

そうして、まぼろしのこの世を、いつだって全力で味わっていたい。

 

 

 

たまに、ふっと意識が遠くなって、この世のすべてを、死んだ人の目線から眺めているときがあります。

 

死者として眺めるこの世は、そのすべてが、とてつもなく愛おしいです。

 

嘆いたり、悲しんだり、怒ったり、恨んだり、妬んだり、意地悪をしたり、自己嫌悪に陥ったり……

 

一見して醜く思えるようなそんな営みすらもひっくるめて、無数にうごめくひとりひとりの人間が、愛おしくて愛おしくてたまらなくなる。

 

生という名のまぼろしが、愛おしくてたまらなくなる。

 

「大丈夫だよ」と声をかけて、ひとりひとりの頭をそっとなでてまわりたくなる。

 

「どんな行動を選んでも、どんな感情を選んでも、大丈夫だよ」と。

 

「どうせせんぶまぼろしなんだから」と。

 

「でも、まぼろしだからこそ、思いっきり味わってね」と。

 

「生きてね」と。

 

 

 

 

 

私は、生きたい。

 

だから、これからも、いつだって「したい」を選ぶ勇気を持った自分でいたい。

 

そんな風に、自分を整えつづけていたいです。

 

整えつづけて、選びつづけて、生きていきます。