ルビンの壺

2015年1月16日

rubin

 

 

 

 

誰か特定の人に会いたくて会いたくてたまらなくなって、でも、物理的、精神的な距離や、あるいは生死の壁が二人を隔ててしまっているようなとき、私は、ただ黙って目を閉じ、呼吸を整え、瞑想の世界に入っていきます。

 

瞑想が進み、「小出遥子」という存在の輪郭がどんどんあいまいになっていき、やがて消え去ったとき、私は、会いたかった人との再会を果たした自分を発見します。

 

 

 

そこにはすべてがあって、同時にすべてがなくって、いや、すべてがないからこそすべてがあって、すべてが溶け合って、ただただ「いま」「ここ」に存在しています。

 

そこには「小出遥子」もいないし、会いたかった相手の姿をした「なにか」もいません。

 

でも、だからこそ、私たちは、「いま」「ここ」で「会える」のです。

 

 

 

そこはたましいのふるさとで、そこに属していない存在などありません。

 

そしてそのふるさとは、決して、ふだん生きている世界と切り離されて存在している世界ではないのです。

 

 

 

それらはいつだって、「いま」「ここ」に、同時に存在している。

 

 

 

「ルビンの壺」という有名な心理学の絵があります。

 

絵の白い部分に注目すると、そこには優勝カップのようなものが見えてくる。

 

しかし、黒い部分に注目していみると、今度は一転して、向かい合う二人の人間の横顔のシルエットが見えてくる。

 

カップが見えているときには、人間の横顔は見えない。人間の横顔が見えているときには、カップは見えない。

 

片方が見えているとき、もう片方はすっかりその姿を消してしまっているかのようです。

 

でも、それらは、ほんとうはいつだって同時に「ある」のです。

 

 

 

「この」世界を肉体をもって生きているときには、たましいのふるさとのことなんかすっかり忘れてしまっています。

 

でも、ふるさとは、いつだって「いま」「ここ」に、同時に存在しているのです。

 

 

 

 

 

 

 

私たちは、ほんとうはいつだって還っていけるのだと思います。